真珠庵本堂・真珠庵見どころ(修学旅行・観光)

真珠庵本堂

●真珠庵本堂は1900年(明治33年)4月7日に国の重要文化財に指定されました。
●真珠庵本堂は江戸時代前期の1638年(寛永15年)に京の豪商・後藤益勝(ごとうますかつ)の寄進によって建立されました。本堂には曽我蛇足(そがじゃそく)・長谷川等伯(はせがわとうはく)が描いたと伝わる障壁画が飾られていたが、修復されることになり、約400年振りに襖絵が新調されました。
後藤益勝は後藤縫殿助4代目です。後藤家は江戸時代に江戸幕府の御用達呉服師として仕え、後藤家の当主が代々縫殿助を名乗りました。初代は「呉服師由緒書」によると江戸幕府初代将軍・徳川家康が岡崎城を居城としていたころから呉服御用達を勤め、家康側近として緒事御用を勤めた特権商人でした。後藤益勝は1627年(寛永4年)に縫殿助を名乗り、それ以降当主が代々縫殿助を名乗るようになりました。なお元和年間(1615年~1624年)に呉服師六軒仲間が形成され、後藤縫殿助は六軒仲間の筆頭になりました。
曽我蛇足は生没年不詳です。曽我蛇足は室町時代中期・後期の画家で、曽我派の祖とされています。曽我蛇足は大徳寺を復興し、一休さんとも言われる一休宗純(いっきゅうそうじゅん)に禅を師事し、一休宗純は曽我蛇足に画を師事したことから1491年(延徳3年)に曽我蛇足が一休宗純を創建した真珠庵の襖絵を描いたとも言われています。ちなみに曽我蛇足は特定の絵師を指すものではなく、曽我家の絵師が代々継承したことを意味する別号(軒号)とも言われています。また曽我蛇足は「山水図(群馬県立近代美術館蔵)」などに「赤蠅」印を押した数点の作品を描いた絵師と同一人物とも言われています。
長谷川等伯は戦国時代(室町時代後期)の1539年(天文8年)に七尾城城主・畠山氏の家臣・奥村文之丞宗道(おくむらぶんのじょうむねみち)の子として生まれました。その後雪舟(せっしゅう)の弟子・等春(とうしゅん)の門人で、染物屋を営む長谷川宗清(はせがわむねきよ)の養子になり、養父・長谷川宗清や養祖父・無分(法淳)から絵を学んで仏画などを描きました。長谷川家は日蓮宗(にちれんしゅう)の熱心な信徒であったことから能登時代に正覚寺(しょうかくじ)の「十二天像」、大法寺(だいほうじ)の「三十番神図」、(みょうじょうじ)の「涅槃図」・「日乗上人像」などの仏画を中心に描きました。大和絵や中国の花鳥画なども学び、その後養父母が相次いで亡くなり、1571年(元亀2年)頃に妻と息子・久蔵を連れて上洛しました。郷里の菩提寺・本延寺(ほんねんじ)の本山・本法寺(ほんぽうじ)教行院(きょうぎょういん)を宿坊とし、翌1572年(元亀3年)に「本法寺8世・日堯上人像」を描きました。茶人・千利休(せんのりきゅう)や臨済宗(りんざいしゅう)の僧・春屋宗園(しゅんおくそうえん)らと親交を結び、関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)に引き立てられ、1586年(天正14年)に豊臣秀吉が造営した聚楽第(じゅらくてい)の襖絵を狩野永徳(かのうえいとく)とともに描き、1589年(天正17年)に千利休から千利休切腹の一因とも言われる大徳寺の山門の天井画などの制作を依頼されました。またいずれも大徳寺(だいとくじ)の塔頭・総見院(そうけんいん)や三玄院(さんげんいん)の襖絵などを描きました。長谷川等伯は日本独自の水墨画様式を確立し、華麗な金碧(きんぺき)障壁画も手掛け、狩野派に並ぶ長谷川派を形成しました。長谷川等伯は狩野永徳・海北友松(かいほうゆうしょう)・雲谷等顔(うんこくとうがん)らと並ぶ安土桃山時代の絵師とされています。なお長谷川等伯は1610年(慶長15年)3月19日に亡くなりました。
●真珠庵本堂は桁行約19.0メートル・梁間約14.1メートルで、入母屋造(いりもやづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。
檜皮葺は屋根葺手法の一形式です。檜皮葺では檜(ひのき)の樹皮を用いて屋根を葺きます。檜皮葺は日本以外では見られない日本古来の手法です。檜皮葺は飛鳥時代の668年(天智天皇7年)に滋賀県大津市の廃寺・崇福寺(すうふくじ)の諸堂が檜皮で葺かれた記録が最古の記録です。
真珠庵

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