白峯神宮の歴史は孝明天皇が崇徳天皇の霊を慰めようとしたのが起源
白峯神宮の時代別年表と重要人物
白峯神宮は江戸時代末期に孝明天皇が1156年(保元元年)の保元の乱で讚岐国に配流されて崩御した崇徳天皇の霊を慰め、また未曾有の国難に加護を祈る為、白峯陵から霊を京都に遷すようにと江戸幕府に命じたのが起源です。なお歴史は修学旅行・観光の為に簡単にマトメています。
【淳仁天皇・崇徳天皇】
- 764年(天平宝字8年)に第47代・淳仁天皇(じゅんにんてんのう)が藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の乱により、淡路国(兵庫県)に配流され、その後崩御しました。なお淳仁天皇は733年(天平5年)に第40代・天武天皇(てんむてんのう)の皇子・舎人親王(とねりしんのう)の七男として生まれました。3歳で父が亡くなったことから天皇の孫でありながら官位を授かることはありませんでした。756年(天平勝宝8歳)に崩御した聖武天皇の遺言により、新田部親王(にいたべしんのう)の次男・道祖王(ふなどおう)が立太子されたが、757年(天平勝宝9年)に聖武天皇の娘である第46代・孝謙天皇(こうけんてんのう)が道祖王を廃し、孝謙天皇の母・光明皇后を後ろ盾とする光明皇后の兄・藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の強い推挙により、大炊王(淳仁天皇)が立太子されました。758年(天平宝字2年)に孝謙天皇が譲位し、淳仁天皇が即位しました。その後孝謙上皇が弓削道鏡(ゆげのどうきょう)を寵愛するようになり、諫めた淳仁天皇と孝謙上皇が対立するようになり、764年(天平宝字8年)に藤原仲麻呂の乱が起こると淳仁天皇は後見人を失い、孝謙上皇から廃位を宣告され、淡路国に配流されました。淳仁天皇は逃亡を図るが捕まり、765年(天平神護元年)に崩御しました。
- 1156年(保元元年)に第75代・崇徳天皇(すとくてんのう)が保元の乱(ほうげんのらん)で讃岐国(香川県)に配流され、その後崩御しました。なお崇徳天皇は1119年(元永2年)に第74代・鳥羽天皇の第1皇子として生まれました。生後間もなく親王宣下を受け、1123年(保安4年)に皇太子となると同日に父が譲位し、数え5歳で崇徳天皇に即位しました。その後父が藤原得子(ふじわらのとくし)を寵愛し、1141年(永治元年)に崇徳天皇に譲位を迫り、父と藤原得子の間に生れた躰仁親王(なりひとしんのう)が第76代・近衛天皇(このえてんおう)に即位し、崇徳上皇は和歌に没頭しました。1155年(久寿2年)に近衛天皇が崩御し、子・重仁親王の即位に望みを掛けたが、叶いませんでした。1156年(保元元年)に父が崩御すると藤原頼長(ふじわらのよりなが)らと組んで保元の乱を起こしたが、実弟である第77代・後白河天皇や義父・藤原忠通らに敗れて讚岐国に配流されました。配流後に仏教に深く傾倒して極楽往生を願い、五部大乗経の写本作りに専念し、写本を朝廷に差し出したが、後白河天皇が呪詛が込められているかと疑い、送り返すと夜叉のような姿になり、後に天狗になったとも言われています。崇徳天皇は1164年(長寛2年)に崩御しました。なお崇徳天皇崩御後に天変地異が相次いで崇徳天皇の祟りとされ、崇徳天皇が葬られた白峯陵(香川県坂出市)の隣に崇徳天皇の菩提を弔う為、府中の木丸殿が移築されて法華堂(頓証寺殿)が建立され、朝廷の命によって白峯寺で供養会が行われるようになりました。
- 白峯神宮が建立されている場所は藤原北家花山院流難波家の庶流で、蹴鞠・和歌の宗家であった飛鳥井(あすかい)邸がありました。平安時代末期に難波忠教(なんばただのり)が難波家の祖になり、難波忠教の子・難波頼輔(なんばよりすけ)は蹴鞠一道の祖と言われるようになりました。鎌倉時代前期に難波頼輔の孫で、難波頼経(なんばよりつね)の子・飛鳥井雅経(あすかいまさつね)が飛鳥井家の祖になり、飛鳥井流蹴鞠を創始しました。飛鳥井雅経は鎌倉幕府2代将軍・源頼家に蹴鞠を伝授しました。ちなみに飛鳥井雅経は藤原俊成や藤原定家に歌道を学び、1205年(元久2年)に藤原定家とともに「新古今和歌集」の撰者に任じられ、飛鳥井家が蹴鞠・和歌の宗家として繁栄する基礎を築きました。1439年 (永享11年)に飛鳥井雅世は第102代・後花園天皇の勅命により、「新続古今和歌集」の撰者に任じられました。その後も飛鳥井家は御所・仙洞御所の和歌会・蹴鞠会などに奉仕し、江戸時代に家禄が928石でした。明治維新後に飛鳥井家は華族に列し、1884年(明治17年)の華族令によって伯爵に叙されました。なお明治維新後に飛鳥井家は東京に移転し、昭和前期に邸宅が東京市渋谷区原宿にありました。
【白峯神宮の起源・始まり】
- 白峯神宮は江戸時代末期に第121代・孝明天皇(こうめいてんのう)が1156年(保元元年)の保元の乱により、讚岐国に配流されて崩御した第75代・崇徳天皇の霊を慰め、また未曾有の国難に加護を祈る為、白峯陵(香川県坂出市)から霊を京都に遷すようにと江戸幕府に命じたのが起源と言われています。1866年(慶応2年)旧暦11月16日から白峯神宮の建立が始まるが、孝明天皇はまもなく崩御しました。1868年(慶応4年)旧暦8月18日に第122代・明治天皇(めいじてんのう)が父・孝明天皇の意志を次いで、白峯神宮創建を宣命し、勅使を白峯陵に送り、崇徳天皇の命日である旧暦8月26日に宣旨を読みあげさせました。旧暦9月6日に勅使が崇徳天皇の霊を讃岐国から京都に移し、法華堂(頓証寺殿)の本尊であった崇徳上皇僧形座像図を白峯神宮に移し、翌9月7日に明治天皇が親拝しました。ちなみに白峯神宮の初代宮司には讃岐国・白鳥神社の神職家の猪熊夏樹が就きました。
【明治時代以降(1868年頃~)の出来事】
- 1868年(明治元年)に本殿が下鴨神社(しもがもじんじゃ)の摂社・河合神社(かわいじんじゃ)を模して建立されました。
- 1873年(明治6年)に藤原仲麻呂の乱によって淡路国に配流され、その後崩御した第47代・淳仁天皇の霊を淡路島から迎えて合祀し、官幣中社になりました。
- 1940年(昭和15年)8月1日に官幣大社に昇格し、号「神宮」を許され、白峯宮から白峯神宮に改称されました。
- 1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に加列されました。
【白峯神宮を発願した孝明天皇】
第121代・孝明天皇は1831年(天保2年)に第120代・仁孝天皇と正親町雅子の第4皇子として生まれました。1835年(天保6年)に親王宣下を受け、1840年4(天保11年)に皇太子になりました。1846年(弘化3年)に父・仁孝天皇が崩御すると孝明天皇に即位しました。1854年(嘉永7年)の日米和親条約(神奈川条約)は許したが、1858年(安政5年)の日米修好通商条約では勅許を拒否しました。攘夷鎖国を望み、江戸幕府が独断で日米修好通商条約を調印した際には一時譲位を表明しました。しかし過激な討幕運動に反対して公武合体策を執り、1860年(万延元)に皇妹・和宮を江戸幕府14代将軍・徳川家茂に嫁がせました。尊攘過激派の堂上独占に批判的で、三条実美らの七卿が都落ちになり、第121代・孝明天皇の崩御後に尊攘派の公家が復活しました。孝明天皇は1867年(慶応2年)に天然痘で崩御しました。
【白峯神宮 備考】
*参考・・・京都・白峯神宮(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ