白峯神宮本殿・白峯神宮見どころ

白峯神宮本殿

●白峯神宮本殿は1868年(明治元年)に下鴨神社(しもがもじんじゃ)の摂社・河合神社(かわいじんじゃ)を模して建立されされました。白峯神宮本殿には奈良時代の764年(天平宝字8年)の藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の乱で淡路に流されて亡くなった第47代・淳仁天皇と平安時代後期の1156年(保元元年)の保元の乱(ほうげんのらん)で讃岐に流されて亡くなった第75代・崇徳天皇が祀られています。
第47代・淳仁天皇は奈良時代の733年(天平5年)に第40代・天武天皇の皇子・舎人親王(とねりしんのう)と当麻山背(たいまのやましろ)の七男として生まれました。3歳で父・舎人親王がなくなったことから天皇の孫でありながら官位を授かることはありませんでした。756年(天平勝宝8歳)に崩御した第45代・聖武天皇の遺言により、新田部親王(にいたべしんのう)の次男・道祖王(ふなどおう)が立太子となったが、757年(天平勝宝9年)に第45代・聖武天皇の娘である第46代・孝謙天皇が道祖王を廃し、第46代・孝謙天皇の母・光明皇后(藤原光明子)を後ろ盾とする光明皇后の兄・藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ・恵美押勝(えみのおしかつ))の強い推挙により、大炊王(第47代・淳仁天皇)が立太子されました。758年(天平宝字2年)に第46代・孝謙天皇が譲位し、第47代・淳仁天皇に即位しました。ただ実権は藤原仲麻呂が握り、760年(天平宝字4年)に藤原仲麻呂が皇室外で初めて太政大臣になりました。また孝謙上皇が弓削道鏡(ゆげのどうきょう)を寵愛するようになり、諫めた第47代・淳仁天皇と孝謙上皇が対立するようになり、764年(天平宝字8年)に恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱が起こると後見人を失い、孝謙上皇から廃位を宣告され、淡路国に配流されました。孝謙上皇は第48代・称徳天皇に即位しました。第47代・淳仁天皇は逃亡を図るが捕まり、765年(天平神護元年)11月10日に崩御しました。第47代・淳仁天皇は廃帝(はいたい)・淡路廃帝(あわじはいたい)とも言われています。
第75代・崇徳天皇は平安時代後期の1119年(元永2年)7月7日に第74代・鳥羽天皇と中宮・藤原璋子(ふじわらのしょうし・待賢門院(たいけんもんいん))の第1皇子として生まれました。生後間もなく親王宣下を受け、1123年(保安4年)1月28日に皇太子となると同日に父・鳥羽天皇が譲位し、数え5歳(満3歳7か月)で第75代・崇徳天皇に即位しました。その後曾祖父・白河法皇(第72代・白河天皇)が崩御すると父・鳥羽上皇が院政を開始しました。1129年(大治4年)に関白・藤原忠通(ふじわらのただみち)の長女・藤原聖子(ふじわらのせいし・皇嘉門院(こうかもんいん))が入内し、翌1130年(大治5年)に藤原聖子が中宮になったが、子供は生まれず、1140年(保延6年)に女房・兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね)が第1皇子・重仁親王(しげひとしんのう)を生むと藤原忠通・藤原聖子親子が不快感を抱いたとも言われています。父・鳥羽上皇は藤原得子(ふじわらのとくし・美福門院(びふくもんいん))を寵愛し、1141年(永治元年)に第75代・崇徳天皇に譲位を迫り、父・鳥羽上皇と藤原得子の第9皇子・躰仁親王(なりひとしんのう)が第76代・近衛天皇に即位し、崇徳上皇は和歌に没頭しました。1155年(久寿2年)に第76代・近衛天皇が崩御し、子・重仁親王の即位に望みを掛けたが、叶いませんでした。1156年(保元元年)に父・鳥羽上皇が崩御すると藤原頼長(ふじわらのよりなが)らと組んで保元の乱(ほうげんのらん)を起こしたが、実弟である第77代・後白河天皇や義父・藤原忠通らに敗れて讚岐国(香川県)に配流されました。ちなみに天皇経験者が配流されたのは第47代・淳仁天皇以来、約400年振りの出来事でした。配流後に仏教に深く傾倒して極楽往生を願い、五部大乗経(法華経・華厳経・涅槃経・大集経・大品般若経)の写本作りに専念し、写本を朝廷に差し出したが、第77代・後白河天皇が呪詛(じゅそ)が込められているかと疑い、送り返すと夜叉のような姿になり、後に天狗になったとも言われています。なお第75代・崇徳天皇は1164年(長寛2年)9月14日に崩御しました。
白峯神宮見どころ

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