葵祭と第31代斎王(賀茂斎院)・式子内親王
葵祭と第31代斎王(賀茂斎院)・式子内親王
葵祭では810年(弘仁元年)に第52代・嵯峨天皇が薬子の変で勝利したことから斎王(賀茂斎院)が設けられました。式子内親王は1159年(平治元年)から1169年(嘉応元年)までの約10年間、第31代斎王(賀茂斎院)を勤めました。
★葵祭2025の最新情報
【葵祭日程(要確認)】
葵祭・路頭の儀は例年5月15日に行われます。ただ悪天候の場合、翌16日に順延されます。
葵祭2025日程(時代行列・流鏑馬神事・・・)
●葵祭路頭の儀では人約500名・馬約40頭・牛4頭・牛車2台・輿(こし)1丁などの時代行列が巡行します。
葵祭路頭の儀
【葵祭 歴史・簡単概要】
葵祭(あおいまつり)は古墳時代後期の欽明天皇の時代(539年~571年)に京都をはじめ全国が風水害に見舞われて飢餓・疫病が流行し、賀茂大神(上賀茂神社・下鴨神社)の崇敬者・卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)に占わせられたところ賀茂大神の祟りであると奏した為、4月吉日を選んで、馬に鈴を懸け、人は猪頭(いのがしら)を被り、駆競(くち・かけくらべ)して盛大に祭りを行ったことが起源です。その後819年(弘仁10年)に律令制度の中で最も重要な恒例祭祀(中祀)に準じて行われる国家的行事になり、平安時代中期に祭りと言えば、葵祭のことをさすほど隆盛を極めました。
葵祭歴史年表・由来
【葵祭と第31代斎王(賀茂斎院)・式子内親王】
葵祭では810年(弘仁元年)に第52代・嵯峨天皇(さがてんのう)と兄・平城上皇(第51代・平城天皇(へいぜいてんのう))の間で薬子の変(くすこのへん)が起こり、嵯峨天皇が賀茂社(上賀茂神社・下鴨神社)に皇女を賀茂社の神迎えの儀式に奉仕する阿礼少女(あれおとめ)に捧げると祈願し、勝利したことから伊勢神宮に奉仕する伊勢斎王に倣って斎王(賀茂斎院)が設けられました。式子内親王(しょくしないしんのう・しきしないしんのう・のりこないしんのう)は平安時代後期の1159年(平治元年)から1169年(嘉応元年)までの約10年間、第31代斎王(賀茂斎院)を勤め、葵祭に奉仕しました。また式子内親王は新三十六歌仙・女房三十六歌仙に数えられる歌人としても知られ、「忘れめや あふひ(葵)を草に 引き結び 仮寝の野辺の 露のあけぼの」と詠みました。詞書に「斎院に侍りける時、神館にて」と記されています。式子内親王は葵祭(賀茂祭)の前日に潔斎(けっさい)の為に上賀茂神社北側の御阿礼野(みあれの)に設けられた仮屋(神館(こうだち))に宿泊し、二葉葵(双葉葵)を枕に結んで眠り、葵祭当日に夜が明け、露に光る清らかなあけぼの情景を詠んだと言われています。ちなみに斎王は葵祭が終了すると賀茂斎院(紫野斎院・紫野院)に還御したが、遅くなると神館に宿泊して翌朝に還御したそうです。なお礼子内親王が和歌を詠んだ平安時代後期頃の上賀茂神社では現在と異なり、二葉葵が境内一面にたくさん分布していたと言われています。
御阿礼野では例年5月12日の夜に御阿礼神事が行われています。御阿礼神事は神霊迎えの神事で、上賀茂神社の祭祀の中でも最も古く荘厳な神事と言われています。御阿礼神事は奉仕する神職以外は見ることができません。
【礼子内親王 葵祭】
式子内親王は1149年(久安5年)に第77代・後白河天皇(ごしらかわてんのう)と藤原季成の娘・藤原成子の間に生れ、後白河天皇の第3皇女でした。1159年(平治元年)10月25日に内親王宣下を受け、斎王(賀茂斎院)に卜定されました。1169年(嘉応元年)7月26日に病気で斎王(賀茂斎院)を退下しました。退下後に母の実家・高倉三条第、父・後白河法皇の法住寺殿(ほうじゅうじどの)の萱御所 (かやのごしょ) 、叔母・八条院暲子内親王に身を寄せたと言われています。高倉三条第には藤原俊成(ふじわらのとしなり)の子・藤原定家(ふじわらのていか)が何度か訪れました。その後准三宮(じゅさんぐう)宣下を受けました。八条院暲子内親王とその猶子を呪詛したと疑われ、白河押小路殿に移り、その後父・後白河法皇の同意を得られないまま出家したと言われています。法名を承如法と称しました。1197年(建久8年)に橘兼仲夫妻の謀計に連座して京都から追放されそうになったが、処分は行われませんでした。1199年(正治元年)に体調が不調になり、1200年(正治2年)に後鳥羽上皇(第82代・後鳥羽天皇(ごとばてんのう))の求めに応じて百首歌を詠み、藤原定家に見せました。後鳥羽上皇は式子内親王を九条良経・慈円とともに評価しました。式子内親王は藤原俊成に和歌を学び、藤原俊成から「古来風体抄」を献上されました。式子内親王は新三十六歌仙・女房三十六歌仙に数えられ、和泉式部(いずみしきぶ)以後の女流歌人で第一人者とも言われました。式子内親王は「新古今和歌集」・「千載和歌集」などに入集され、歌集に「式子内親王集」があります。式子内親王は悲哀や孤独感に満ちた抒情的な和歌よ詠み、恋歌に優れていると言われています。なお式子内親王は1201年(建仁元年)3月1日に亡くなりました。
【葵祭と第31代斎王(賀茂斎院)・式子内親王 備考】
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葵祭見どころ