正伝寺本堂・正伝寺見どころ(修学旅行・観光)

正伝寺本堂

●正伝寺本堂は1904年(明治37年)2月18日に国の重要文化財に指定されました。
●正伝寺本堂は桃山時代から江戸時代初期の慶長年間(1596年~1614年)に建立されたと言われています。本堂は元々伏見城の御成殿として建てられ、その後南禅寺(なんぜんじ)の塔頭(たっちゅう)・金地院(こんちいん)の小方丈として移築され、更に1653年(承応2年)に金地院から正伝寺の本堂として移築されたと言われています。伏見城では1600年(慶長5年)の伏見城の戦いの前哨戦として伏見城の戦いが行われ、徳川氏の家臣・鳥居元忠ら380余名が割腹し、その血痕が残る廊下の板が広縁の天井に使われ、「血天井」とも言われています。本堂の襖絵は1605年(慶長10年)頃に江戸幕府初代将軍・徳川家康が伏見城の本丸御殿を修理した際、家康が発注して描かれたもとの言われています。襖絵は中国杭州西湖(浙江省杭州市)の風景で、狩野山楽一派が描いたとも言われています。
伏見城は1592年(文禄元年)に豊臣秀吉が伏見指月に隠居所として隠居屋敷を建設したのが始まりです。1593年(文禄2年)に秀頼が誕生し、大坂城を秀頼に譲る為に隠居屋敷の大規模な改修が始まりました。ただ1596年(慶長元年)の慶長伏見地震で建物が倒壊したことから北側約500メートルにある木幡山に場所を移し、伏見城の築城を再開しました。1597年(慶長2年)5月に天守閣が完成し、秀吉が移ってきたが、1598年(慶長3年)8月18日に秀吉が伏見城で亡くなりました。1600年(慶長5年)の伏見城の戦いでは徳川氏の家臣・鳥居元忠らが籠城し、伏見城を死守して最後に自刃し、その血の痕が廊下に残ったとも言われています。ただ伏見城の多くの建物は炎上し、伏見城は落城したと言われています。1601年(慶長6年)3月に江戸幕府初代将軍・徳川家康が伏見城に入城し、二条城の築城と伏見城の再建に着手しました。1619年(元和5年)から一国一城令によって廃城が決定し、1625年(寛永2年)に破却が完了しました。天守は二条城、多くの建物は福山城・淀城に移されたと言われています。なお伏見城では1623年(元和9年)7月27日に江戸幕府3代将軍・徳川家光の将軍宣下が行われています。
金地院は応永年間(1394年~1427年)に室町幕府4代将軍・足利義持が南禅寺68世・大業徳基を開山として洛北・鷹ケ峯に創建したのが起源と言われています。その後荒廃し、1605年(慶長10年)に江戸幕府の参与で、「黒衣の宰相」と言われた南禅寺270世である金地院崇伝・以心崇伝が現在の南禅寺山内に移しました。なお金地院は地蔵菩薩を本尊として祀っています。
●正伝寺本堂は桁行約13.8メートル・梁間約10.0メートルで、入母屋造(いりもやづくり)のこけら葺(こけらぶき)です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。
こけら葺は木材の薄板を使って屋根を葺く方法です。こけら葺は板葺(いたぶき)の一種です。板葺では板厚が2~3ミリの場合にこけら葺、板厚が4~7ミリの場合に木賊葺(とくさぶき)、板厚が1~3センチの場合に栩葺(とちぶき)と言われています。板葺にはヒノキ・サワラ・スギ・エノキ・トクサ・クヌギなどが用いられます。板葺は古墳時代から屋根に用いられるようになったとも言われ、茅葺(かやぶき)に次いで古いとも言われています。
正伝寺

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