相国寺八幡宮・相国寺見どころ

相国寺八幡宮

●相国寺八幡宮はかつて南北朝時代に室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)が造営した花の御所(御所八幡町)に祀られていました。足利義満は石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)から御神体を迎える際に石清水八幡宮から花の御所までの沿道に白布を敷き詰めたと言われています。その後相国寺境内に移されました。なお相国寺八幡宮はは源氏の氏神である八幡神を祀っています。
八幡神は誉田別命(ほんだわけのみこと)とも言われ、第15代・応神天皇と同一とされています。奈良時代以降の神仏習合(しんぶつしゅうごう)により、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)とも言われました。八幡神は清和源氏・桓武平氏(かんむへいし)などの武家から武運の神(武神)として崇敬されました。また八幡神は第15代・応神天皇と同一とされ、皇祖神としても位置付けられました。八幡神は571年(欽明天皇32年)に初めて大分・宇佐の地に示顕したとされ、大分県宇佐市に宇佐神宮(宇佐八幡宮)が建立され、八幡神社の総本社になっています。
足利義満は南北朝時代の1358年(正平13年・延文3年)8月22日に室町幕府2代将軍・足利義詮(あしかがよしあきら)と側室・紀良子(きのりょうし)の間に生まれました。紀良子は石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の検校・善法寺通清の娘で、第84代・順徳天皇の玄孫で、足利義満は「春王」と名付けられました。1366年(正平21年・貞治5年)12月に北朝第4代・後光厳天皇から「義満」の名を賜り、従五位下に叙せられました。1367年(正平22年・貞治6年)12月7日に足利義詮が死去すると10歳で将軍家の家督を継ぎ、1368年(正平23年・応安元年)4月に元服し、1369年(正平23年・応安元年)12月30日に征夷大将軍宣下を受け、室町幕府3代将軍になりました。足利義満は南北朝の合一を果たし、金閣寺(鹿苑寺(ろくおんじ))を建立して北山文化を開花させました。なお金閣寺の前身である北山山荘は北山殿(きたやまどの)・北山第(きたやまてい)とも言われ、その規模は御所に匹敵し、政治の中枢が全て集約されていました。足利義満は1394年(応永元年)に将軍職を子で、室町幕府第4代将軍・足利義持(あしかがよしもち)に譲ったが、その後実権は手放さずに北山山荘で政務を執りました。
花の御所は足利将軍家の邸宅です。花の御所は南北朝時代の1378年(天授4年・永和4年)に室町幕府3代将軍・足利義満が崇光上皇(北朝第3代・崇光天皇)の仙洞御所(せんとうごしょ)跡と今出川公直(いまでがわきんなお)の邸宅・菊亭(きくてい)跡(合計南北2町・東西1町)に足利将軍家の邸宅の造営を始めたのが始まりです。新しい邸宅は上御所、従来の坊門三条殿は下御所とも称されました。花の御所は庭内に鴨川(賀茂川)の水を引いて池を作り、各地の守護大名から献上された四季の花木を植えたことから花の御所(花亭)と言われました。その後1476年(文明8年)、室町幕府8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)の時代に焼失しました。なお1559年(永禄2年)に二条御所が造営されたことから廃止されました。
石清水八幡宮は平安時代前期の859年(貞観元年)に奈良・大安寺(だいあんじ)の僧・行教(ぎょうきょう)が大分・宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)の祭神・八幡大神から「吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」という神託を受け、男山の峯に神霊を奉安したのが起源と言われています。翌860年(貞観2年)に第52代・清和天皇が八幡造りの社殿(六宇の宝殿(ろくうのほうでん))を造営しました。石清水八幡宮の名称は男山に既にあった石清水山寺(摂社・石清水社)に由来しています。
●相国寺八幡宮は一間社流造(いっけんしゃながれづくり)です。
流造は神社建築の一形式です。流造は正面入口にあたる屋根の一方(前流れ)が長く延びた形式です。流造は伊勢神宮(いせじんぐう)に代表される神明造(しんめいづくり)から発展し、奈良時代末期から平安時代に成立し、全国に広がりました。流造では上賀茂神社(かみがもじんじゃ)・下鴨神社(しもがもじんじゃ)がよく知られています。流造では正面(桁行)の柱間が1間(柱2本)の場合には一間社流造、3間(柱4本)の場合には三間社流造、5間(柱6本)の場合には五間社流造になります。
相国寺見どころ

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