相国寺法堂・相国寺見どころ(修学旅行)

●相国寺法堂は1910年(明治43年)8月29日に国の重要文化財に指定されました。
●相国寺法堂は江戸時代初期の1605年(慶長10年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の子・豊臣秀頼(とよとみひでより)が江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)の命により、米1万5千石を寄進して再建されました。相国寺法堂は法堂建築として、日本最古とも言われています。相国寺法堂は南北朝時代の1391年(元中8年・明徳2年)に初めて建立され、法雷堂と称しました。その後4度の兵火などで焼失し、1551年(天文20年)の兵火でも焼失し、1605年(慶長10年)に再建されました。
豊臣秀頼は安土桃山時代の1593年(文禄2年)8月29日に関白・豊臣秀吉と側室・淀殿(よどどの・浅井茶々(あざいちゃちゃ))の間の第2子として大坂城で生まれました。豊臣秀頼は豊臣秀吉57歳の時の子で、健康な成長を願って、一旦捨てた形にして家臣・松浦重政(まつうらしげまさ)が拾い上げました。豊臣秀頼は幼名は拾丸(ひろいまる)で、乳母は宮内卿局(くないきょうのつぼね)・右京大夫局(うきょうのだいぶのつぼね)・正栄尼(しょうえいに)でした。豊臣秀吉は豊臣秀頼誕生直後に関白・豊臣秀次(とよとみひでつぐ)の娘と婚約させようとしたが、1595年(文禄4年)に豊臣秀次の関白職を奪って自刃させ、豊臣秀頼の継嗣としての地位を確定させました。豊臣秀頼は豊臣秀吉とともに伏見城に住んでいたが、1598年(慶長3年)8月に豊臣秀吉が死去すると豊臣秀頼は家督を継ぎ、豊臣秀吉の遺命によって大坂城に移り住みました。豊臣秀頼は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後に摂津・河内・和泉を知行する一大名になったが、1603年(慶長8年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)の孫、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)の子・千姫(せんひめ)と結婚しました。しかし1614年(慶長19年)の方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)によって大坂の陣が勃発し、1615年(慶長20年)6月4日に秀頼は淀殿らとともに自害しました。なお豊臣秀頼は多くの神社仏閣に寄進したり、再建などに尽力したりしています。
一般的に法堂は寺院で僧侶が経典の講義や説教などをする堂塔です。法堂は禅宗寺院で用いられ、禅宗寺院以外では講堂(こうどう)と言われています。講堂は通常、中国・唐時代の伽藍配置に倣って、金堂(本堂)の背後に建立されています。講堂は奈良時代に建立が始まり、鎌倉時代以後にはほとんど建立されなくなったが、禅宗寺院で仏殿の背後に法堂として建立されました。講堂で講義する際には本尊を安置し、講師が本尊に向かい、礼盤(らいばん)に座って講義を行いました。なお講堂は多くの僧侶が参集することから金堂よりも大きく建立されるが、装飾性は少い堂塔です。
●相国寺法堂には鏡天井に絵師・狩野光信(かのうみつのぶ)が描いた蟠龍図(ばんりゅうず)があります。蟠龍図は法堂の中央付近で手を叩くと天井に反響してカラカラという音が返ってくることから鳴き龍(なきりゅう)とも言われています。
狩野光信は1561年(永禄4年)または1565年(永禄8年)に絵師・狩野永徳(かのうえいとく)の長男として山城国で生まれました。父・狩野永徳が織田信長(おだのぶなが)に仕え、1576年(天正4年)から父・狩野永徳とともに織田信長の居城・安土城の障壁画を制作しました。本能寺の変後に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)に仕え、1590年(天正18年)に父・狩野永徳が亡くなると狩野派の中心になり、山城国大原に知行100石を拝領しました。1592年(天正20年)に豊臣秀吉が築城した肥後国名護屋城の障壁画を制作しました。豊臣秀吉没後に徳川家に仕え、1603年(慶長8年)に京都の江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)邸(二条城)に大内裏図を描きました。1606年(慶長11年)江戸幕府の命で江戸に下り、江戸城の障壁画を制作したが、1608年(慶長13年)7月15日に帰京途中で桑名で亡くなりました。狩野光信は父・狩野永徳の豪壮華麗な画風に対し、大和絵風の繊細で優美で、叙情的な画風を特徴としています。
相国寺見どころ

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