相国寺の歴史は足利義満が一大禅宗伽藍の建立を発願したのが起源
相国寺の時代別年表と重要人物
相国寺は1382年(弘和2年・永徳2年)に室町幕府3代将軍・足利義満が室町第の東に一大禅宗伽藍を建立することを発願したのが起源です。寺号・相国寺は足利義満が左大臣で、左大臣相国と呼んでいたことに由来します。なお歴史は修学旅行・観光の為に簡単にマトメています。
【相国寺が建立されている場所】
- 相国寺が建立されている場所にはかつて天台宗(てんだいしゅう)の宗祖である伝教大師(でんぎょうだいし)・最澄(さいちょう)創建の出雲寺(いずもじ・毘沙門堂(びしゃもんどう))、源空上人(げんくうしょうにん)の神宮寺(じんぐうじ・百万遍知恩寺(ひゃくまんべんちおんじ))・安聖寺などが建立されていました。
- 1367年(正平22年・貞治6年)に相国寺開基である室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)が天龍寺(てんりゅうじ)住持・春屋妙葩(しゅんおくみょうは)から受衣しました。
- 1371年(建徳2年・応安4年)に室町第(むろまちだい)が室町北小路に完成し、その後室町幕府が移されます。室町第には大きな池が掘られて鴨川から水が引かれ、四季の花を植えられて咲き乱れていたことから「花の御所」とも言われました。
【相国寺の起源・始まり】
- 相国寺は南北朝時代の1382年(弘和2年・永徳2年)に足利義満が室町第・花の御所の東に一大禅宗伽藍を建立することを発願したのが起源です。足利義満は同年9月に夢窓国師(むそうこくし)・夢窓疎石(むそうそせき)の法要が三会院で行われた際、春屋妙葩・義堂周信(ぎどうしゅうしん)を招きよせ、「一寺を建立して道心堅固な僧侶五十名ないし百名を止住させ、自らもまた何時となく道服を着けて寺に入り、皆とともに参禅修行をしたいのだがどうか」と相談したと言われています。足利義満は禅の師・春屋妙葩に開山を要請したが、春屋妙葩が固辞したことから春屋妙葩の師である夢窓国師・夢窓疎石が開山になりました。寺号・相国寺は足利義満が左大臣で、左大臣の位を相国と呼んでいたことに由来します。また中国における五山制度の始まりと言われる大相国寺にもあやかってもいます。なお相国寺は北側が上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)の森、東側が寺町通(てらまちどおり)、西側が大宮通(おおみやどおり)にわたり、面積約144万坪の壮大な敷地に50余りの塔頭(たちゅう)が建立されていたと言われています。
- 1382年(弘和2年・永徳2年)10月に法堂・仏殿の立柱が行われました。
【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の出来事】
- 1384年(元中元年・至徳元年)に大仏殿の立柱が行われました。また同年に寺号を万年山相国承天禅寺(まんねんざんしょうこくじょうてんぜんじ)に改められました。
- 1386年(元中3年・至徳3年)に三門の立柱・上棟が行われました。
- 1386年(元中3年・至徳3年)に足利義満は京都五山(天龍寺(てんりゅうじ)・相国寺・建仁寺(けんにんじ)・東福寺(とうふくじ)・万寿寺(まんじゅじ))を制定し、相国寺を第2位に列しました。
- 1388年(元中5年・嘉慶2年)に相国寺2世住持(住職)・春屋妙葩が亡くなりました。
- 1392年(元中9年・明徳3年)に相国寺の伽藍が完成し、勅旨によって慶讃大法会(けいさんだいほうえ)が行われました。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の出来事】
- 1394年(応永元年)に寮舎からの出火により、相国寺が全焼しました。
- 1395年(応永2年)から伽藍の再建が開始され、同年に仏殿・開山堂が立柱され、1396年(応永3年)に法堂が再建されました。
- 1399年(応永6年)に高さ360尺(109メートル)の七重大塔が建立されたが、1403年(応永10年)に落雷によって焼失しました。なお足利義満は翌1404年(応永11年)から金閣寺の前身である北山殿(きたやまどの)に高さ360尺(109メートル)の北山大塔の造営を開始したが、1416年(応永23年)に落雷によって未完のまま焼失したとも言われています。
- 1401年(応永8年)に足利義満が相国寺を京都五山の第1位に列しました。
- 1407年(応永14年)頃に相国寺は旧観に再建されたと言われています。
- 1408年(応永15年)に足利義満が亡くなりました。
- 1410年(応永17年)に相国寺が京都五山の第2位に戻されました。
- 1425年(応永32年)に出火により、相国寺が全焼しました。
- 1463年(寛正4年)に法界門などが完成し、再び再建されたと言われています。
- 室町時代中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))が起こり、東軍の細川勝元(ほそかわかつもと)軍が相国寺に陣を敷いたことから相国寺の戦いによって全焼しました。
- 1470年(文明2年)に室町幕府4代将軍・足利義持(あしかがよしもち)の意向で再建された七重大塔が落雷によって焼失したと言われています。
【戦国時代(1493年頃~1590年頃)の出来事】
- 1549年(天文18年)に天文の乱により、相国寺が全焼しました。
【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の出来事】
- 1584年(天正12年)に中興の祖と言われる相国寺92世・西笑承兌(さいしょうじょうたい)が入寺して再建しました。西笑承兌は関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)に仕えて外交文書の作成を行いました。豊臣秀吉は相国寺に寺領1,300石を施入したと言われています。なお豊臣秀吉が亡くなると江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)に仕え、黒衣の宰相(こくいのさいしょ)とも言われました。
- 1599年(慶長4年)に西笑承兌が前1598年(慶長3年)8月18日に伏見城で亡くなった豊臣秀吉の追善の為に豊光寺(ほうこうじ)を創建しました。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の出来事】
- 1605年(慶長10年)に豊臣秀吉の子・豊臣秀頼(とよとみひでより)の寄進により、法堂が再建され、慶讃大法会が行われました。
- 1609年(慶長14年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)の寄進により、三門が建立されました。
- 1620年(元和6年)に相国寺が類焼に見舞われました。
- 1765年(明和2年)に伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)が釈迦三尊(しゃかさんぞん)像と動植綵絵を寄進しました。
- 1788年(天明8年)に天明の大火により、1605年(慶長10年)に再建された法堂・浴室を残し、相国寺の伽藍の多くが焼失しました。
- 1807年(文化4年)に第116代・桃園天皇(ももぞのてんのう)の皇后・恭礼門院(きょうらいもんいん)の旧殿を賜って開山堂が再建され、その後方丈・庫裏なども再建されました。
【明治時代以降(1868年頃~)の出来事】
- 明治維新後の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)・上知令(あげちれい)により、相国寺の寺領が大幅に減少し、塔頭が統合されたり、廃絶になったりしました。寺領は約7万坪から約2万5千坪に減少したと言われています。
- 1876年(明治9年)に独立して相国寺派総本山になりました。
- 1889年(明治22年)に伊藤若冲が描いた動植綵絵を第122代・明治天皇(めいじてんのう)に献納し、金1万円が下賜されたことから寺領が維持できました。
- 1994年(平成6年)にいずれも塔頭である金閣寺・銀閣寺がユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」に登録されました。
【相国寺の開基とされる室町幕府3代将軍・足利義満】
足利義満は1358年(正平13年・延文3年)に室町幕府2代将軍・足利義詮と側室・紀良子の間に生まれました。母・良子は石清水八幡宮の検校・善法寺通清の娘で、第84代・順徳天皇の玄孫で、義満は「春王」と名付けられました。1366年(正平21年・貞治5年)に北朝第4代・後光厳天皇から「義満」の名を賜り、従五位下に叙せられました。1367年(正平22年・貞治6年)に父・義詮が亡くなると10歳で将軍家の家督を継ぎ、1368年(正平23年・応安元年)に元服し、1369年(正平23年・応安元年)に征夷大将軍宣下を受け、室町幕府3代将軍になりました。義満は南北朝の合一を果たし、金閣寺(鹿苑寺)を建立して北山文化を開花させました。金閣寺の前身である北山山荘は北山殿とも言われ、その規模は御所に匹敵し、政治の中枢が全て集約されていました。義満は1394年(応永元年)に将軍職を子で、室町幕府第4代将軍・足利義持に譲ったが、その後実権は手放さずに北山山荘で政務を執りました。なお足利義満は1408年(応永15年)に亡くなりました。
【相国寺 備考】
*参考・・・相国寺(歴史・見どころ・・・)ホームページ