相国寺庫裏・相国寺見どころ

●相国寺庫裏は京都府指定有形文化財です。
●相国寺庫裏は江戸時代後期の1807年(文化4年)に再建され、韋駄天(いだてん)が開眼されたと言われています。1883年(明治16年)に二世国師(春屋妙葩(しゅんおく みょう))の五百年遠忌に際して大玄関が建立されました。大玄関にはかつて韋駄天(いだてん)を祀る室だったとも言われています。なお相国寺庫裏は香積院(こうしゃくいん)とも言われています。
一般的に庫裏(庫裡・庫院)は寺院の僧侶の居住する場所や食事を調える場所です。庫裏は禅宗寺院で、仏像を安置して礼拝する仏殿・三解脱門(さんげだつもん)である三門(山門)・仏道修行に励む僧堂・僧侶が仏教を講義する法堂(はっとう)・浴場である浴室・トイレである東司(とうす)とともに七堂伽藍に数えられました。庫裏は大規模な寺院では独立した建物として建立されるが、一般的な寺院では寺の事務を扱う寺務所と兼用となっていることが多くなっています。
春屋妙葩は鎌倉時代の1312年(応長元年)1月31日に甲斐国(山梨県)の生まれました。7歳の時に美濃国・虎渓山(こけいざん)永保寺(えいほうじ)で法華経(ほけきょう)を学び、12歳の時に甲斐国・恵林寺(えりんじ)の道満(どうまん)に学び、17歳の時に母方の叔父・夢窓疎石(むそうそせき)のもとで出家し、鉗鎚(けんつい)を受けました。その後渡来僧である竺仙梵僊(じくせんぼんせん)・清拙正澄(せいせつしようちよう)などから大陸禅を学びました。夢窓疎石の法を嗣いで天龍寺(てんりゅうじ)の住職になり、天龍寺を再興しました。1369年(応安2年・正平24年)に室町幕府管領・細川頼之(ほそかわよりゆき)と対立して天龍寺の住職を辞し、丹後国・雲門寺(うんもんじ)に隠棲しました。その後1379年(康暦元年・天授5年)の康暦の政変で細川頼之が失脚すると南禅寺(なんぜんじ)の住職になりました。室町幕府第3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)の帰依を受け、相国寺が創建されると叔父・夢窓疎石が開山、春屋妙葩が第二世になりました。五山十刹制度を作り、五山派を興しました。なお春屋妙葩は1388年(元中5年・嘉慶2年)9月12日に亡くなりました。
韋駄天は仏教を守護する天部(てんぶ)の善神です。韋駄天は持国天(じこくてん)・広目天(こうもくてん)・多聞天(たもんてん)とともに四天王に数えられ、南方を守護する増長天(ぞうじょうてん)の八将の一神で、四天王下の三十二将中の首位を占める天部の仏神です。韋駄天は伽藍を守る護法神とされ、日本の禅宗では厨房や僧坊を守る護法神として祀られています。なお韋駄天は夜叉(やしゃ)がお釈迦様の遺骨・仏舎利(ぶっしゃり)を奪って逃げ去った際に追って取り戻したとも言われ、よく走る神・盗難除けの神として知られています。また韋駄天はお釈迦様の為に食物を駆け巡って集めたとも言われ、御馳走(ごちそう)の由来になりました。
●相国寺庫裏は切妻造(きりづまづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。相国寺庫裏は土間に竈があり、屋根に煙出しがあります。なお庫裏は本来台所です。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮(いせじんぐう)・出雲大社(いづもたいしゃ)などの社殿に採用されています。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造(よせむねづくり)よりも格式が上とも言われています。なお切妻造は世界各地で見られる屋根の形式です。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
相国寺見どころ

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