相国寺総門・相国寺見どころ

相国寺総門

●相国寺総門は2007年(平成19年)3月16日に京都府指定有形文化財に指定されました。
●相国寺総門は棟札によると江戸時代後期の1797年(寛政9年)に相国寺第113世である大典禅師(だいてんぜんじ)・梅荘顕常(ばいそうけんじょう)が再建しました。相国寺総門は創建当初、室町一条に建立されていたが、1788年(天明8年)の天明の大火などで度々焼失したとも言われています。1466年(文正元年)3月に再建された際には室町幕府8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)が始めて通行したと言われています。その後現在の場所に移されました。
大典禅師・梅荘顕常(大典顕常(だいてんけんじょう))は江戸時代中期の1719年(享保4年)に近江国神崎郡伊庭郷(滋賀県東近江市)の儒医・今堀東安の子として生まれたと言われています。また権大納言・園基勝(そのもとかつ)の子として生まれ、その後里子に出されたとも言われています。8歳で黄檗宗(おうばくしゅう)の華蔵院(けぞういん)に入ったが、その後臨済宗(りんざいしゅう)に転じ、11歳で相国寺(しょうこくじ)の塔頭・慈雲院(じうんいん)で得度しました。独峰慈秀の下で禅を修行し、また宇野明霞(うのめいか)・大潮元皓(だいちょうげんこう)に儒教古学の一派・古文辞学(こぶんじがく)も学びました。32歳で相国寺第113世になるが、独峰慈秀が亡くなると官職を退き、漢詩・書に身を投じて過ごしました。伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)・売茶翁(ばいさおう)など多くの文人墨客と交わり、43歳で代表作「昨非集(さくひしゅう)」を刊行しました。また売茶翁の生涯を綴った伝記「売茶翁伝」や日本初の茶経の注釈書「茶経詳説」なども記しました。53歳で相国寺に戻ると住持に推され、その後京都五山碩学(ござんせきがく)・朝鮮修文職(ちょうせんしゅうぶんしょく)を任じられました。62歳で対馬・以酊庵(いていあん)に住持として2年間赴任し、その後南禅寺(なんぜんじ)住持になりました。また朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)に関する国書の起草に関与し、以降朝鮮外交の幕府顧問になりました。1788年(天明8年)の天明の大火で相国寺の多くの堂塔を焼失すると再建に尽力しました。大典禅師・梅荘顕常は1801年(享和元年)3月22日に亡くなりました。
●相国寺総門は一間薬医門(やくいもん)で、切妻造(きりづまづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。
薬医門は2本の本柱(鏡柱)の後方に2本の控え柱を立て、その上に女梁(めうつばり)・男梁(おうつばり)を架け、切妻屋根をのせた門です。薬医門は元々公家や武家の正門などに用いられたが、扉をなくして医家に用いられたことから名称の由来になりました。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮(いせじんぐう)・出雲大社(いづもたいしゃ)などの社殿に採用されています。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造(よせむねづくり)よりも格式が上とも言われています。なお切妻造は世界各地で見られる屋根の形式です。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
相国寺見どころ

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