須賀神社歴史-修学旅行・観光ポイント
須賀神社の時代別年表と重要人物
須賀神社歴史を簡単にマトメてポイント解説します。須賀神社は869年(貞観11年)に姫路市に祀られている広峯神社から牛頭天王を勧請して創建されたとも言われています。社殿は平安神宮蒼龍楼付近に建立されたと言われています。なお須賀神社歴史では時代別に歴史年表にまとめ、重要人物も紹介したりしています。
【前史(岡崎神社)】
★広峯神社(ひろみねじんじゃ)は「播磨鑑(はりまかがみ)・江戸時代編纂」に「崇神天皇の御代に廣峯山に神籬を建て」と記され、第10代・崇神天皇の時代(紀元前97年~紀元前30年)に祀られたとも言われています。また奈良時代の733年(天平5年)に唐(中国)から帰国した遣唐留学生・吉備真備(きびのまきび)が奈良に戻る途中で神威を感じ、第45代・聖武天皇(しょうむてんのう)に報告し、翌734年(天平6年)に白幣山(はくへいさん)に創建したとも言われています。
★岡崎神社(おかざきじんじゃ・東天王社(ひがしてんのうしゃ))は794年(延暦13年)の第50代・桓武天皇(かんむてんおう)による平安京遷都の際、王城鎮護の為に平安京の四方に建立された社のひとつです。岡崎神社は当初、平安京の東に位置したことから東天王社(ひがしてんのうしゃ)と言われていました。
【須賀神社創建(起源・由来)】
★須賀神社は平安時代前期の869年(貞観11年)に兵庫県姫路市の広峰山山頂に祀られている広峯神社から祭神・牛頭天王(ごずてんのう)を勧請して創建されたとも言われています。社殿は現在の平安神宮蒼龍楼(そうりゅうろう)付近に建立されたと言われています。須賀神社は岡崎の東天王社(岡崎神社)と相対し、西天王社(にしてんのうしゃ・西天皇社)とも言われました。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】
★1142年(康治元年)に鳥羽上皇(第74代・鳥羽天皇(とばてんのう))の皇后・美福門院(びふくもんいん)・藤原得子(ふじわらのなりこ)が歓喜光院(かんきこういん)を御願寺(ごがんじ)として創建した際、須賀神社が鎮守社として創建されたとも言われています。ちなみに歓喜光院一帯は美福門院領として、矢野荘と称されていました。歓喜光院は天台宗(てんだいしゅ)に属し、鳥羽上皇の第7皇子・覚快法親王(かくかいほっしんのう)が別当(べっとう)を務め、白河新堂とも言われていました。なお歓喜光院は美福門院の死後に鳥羽上皇と美福門院の皇女・八条院(はちじょういん)が受け継ぎ、1321年(元亨元年)に臨済宗(りんざいしゅう)南禅寺派の大本山・南禅寺(なんぜんじ)の祖円が再興し、南禅寺の末寺になったが、室町時代中期の応仁の乱(おうにんのらん)で廃絶しました。
★平安時代に貴族が顔を隠し、懸想文(けそうぶみ)の代筆を行ないました。須賀神社では例年節分に烏帽子(えぼし)・水干(すいかん)に白い布で顔を隠した懸想文売りが梅の枝に文を付けた懸想文(恋文)を売り歩きます。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】
★1332年(元弘2年・正慶元年)に鎌倉幕府14代執権で、北条氏得宗家当主・北条高時(ほうじょうたかとき)の兵火により、歓喜光院が焼失し、須賀神社が吉田神楽岡に移ったと言われています。
【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の歴史・出来事】
★1336年(延元元年・建武3年)2月に須賀神社の社殿が建立されたと言われています。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】
★室町時代中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))が起こり、歓喜光院が廃絶しました。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
★1648年(慶安元年)6月に須賀神社が吉田大元宮西下に移ったと言われています。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
★明治維新後の神仏分離令・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、社名が須賀神社になりました。
★1924年(大正13年)に須賀神社が現在の場所に移り、聖護院(しょうごいん)一帯の産土神(うぶすながみ)とされました。
★1964年(昭和39年)に須賀神社から久那斗神(くなどのかみ)・八衢比古神(やちまたひこのかみ)・八衢比売神(やちまたひめのかみ)を分祀して交通神社(こうつうじんじゃ)を創建し、社殿が建立されました。交通神社は日本で唯一の交通神社とも言われています。なお須賀神社は素戔嗚尊(すさのおのみこと)・櫛稲田比売命(くしいなだひめのみこと)を祀っています。
★2005年(平成17年)に本殿・拝殿が焼失したが、その後再建されました。須賀神社・交通神社は本殿の内、左側が須賀神社、右側が交通神社になっています。
【美福門院(藤原得子):須賀神社】
美福門院(藤原得子)は1117年(永久5年)に権中納言・藤原長実と左大臣・源俊房の女・方子の間に生まれ、父の鍾愛を受けました。父は祖母・藤原親子が白河上皇(第72代・白河天皇)の乳母であったことから白河上皇の近臣になったが、その後亡くなり、美福門院は二条万里小路亭で暮らしていました。1134年(長承3年)に鳥羽上皇(第74代・鳥羽天皇)に寵愛され、1135年(保延元年)に叡子内親王を産み、1137年(保延3年)に暲子内親王(八条院)を産み、1139年(保延5年)に体仁親王(第76代・近衛天皇)を産みました。鳥羽上皇は体仁親王を第75代・崇徳天皇の皇太子にし、美福門院は体仁親王の立太子とともに女御になり、正妃・璋子(待賢門院)を凌ぐ権勢を持ちました。1140年(保延6年)に崇徳天皇の第1皇子・重仁親王を養子にしました。1141年(永治元年)に鳥羽上皇が崇徳天皇に譲位を迫り、体仁親王が近衛天皇に即位しました。美福門院は上皇の后だったが、異例ながら皇后に立てられました。1142年(永治2年)に皇后得子呪詛事件が発覚し、待賢門院は出家に追い込まれました。その後1155年(久寿2年)に病弱だった近衛天皇が崩御しました。美福門院は近衛天皇崩御を崇徳上皇の呪詛として恨んだとも言われ、崇徳上皇の皇子・重仁親王の即位を阻み、第77代・後白河天皇を即位させ、保元の乱の一因をつくりました。美福門院(藤原得子)は1160年(永暦元年)に亡くなりました。
【須賀神社歴史-修学旅行・観光ガイド 備考】
*参考・・・須賀神社(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)wikipedia