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退蔵院本堂・退蔵院見所(修学旅行・観光)
退蔵院本堂
●退蔵院本堂は1967年(昭和42年)6月15日に国の重要文化財に指定されました。
●退蔵院本堂は室町時代中期の応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年)で妙心寺とともに焼失し、安土桃山時代の1597年(慶長2年)または江戸時代初期の1602年(慶長7年)に再建されたとも言われています。本堂では江戸時代に宮本武蔵(みやもとむさし)が住し、修行に励んだと伝わっています。本堂には狩野光信(かのうみつのぶ)の高弟・狩野了慶(かのうりょうけい)が描いた襖絵が飾られていたが、損傷を防ぐ為に中央部以外を取り外して保管されています。
宮本武蔵は1582年(天正10年)または1584年(天正12年)に美作国(岡山県)または播州(兵庫県)に生まれたとも言われています。「五輪書(ごりんのしょ)」によると1584年(天正12年)、養子・宮本伊織の作成した「宮本家系図」による1582年(天正10年)生まれになります。幼少の頃から兵法に心掛け、「五輪書」によると13歳の時に初めて新当流(しんとうりゅう)の有馬喜兵衛(ありまきへえ)との試合で勝利し、16歳の時に但馬国の兵法者である秋山に勝利し、以来29歳までの60余回の試合で全て勝利したと言われています。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)では東軍(徳川方)の黒田官兵衛(くろだかんべえ・黒田孝高(くろだよしたか))に従って父・新免無二(しんめんむに)とともに九州で戦ったとも言われています。1612年(慶長17年)に巌流島(がんりゅうじま・舟島)で佐々木小次郎(ささきこじろう)と決闘して勝利しました。1614年(慶長19年)からの大阪の陣(おおさかのじん)では三河刈谷藩主・水野勝成(みずのかつなり)の客将として徳川方に従軍して活躍しました。その後諸国を遍歴し、元和年間(1615年~1624年)に水野家臣・中川志摩助の三男・三木之助(みきのすけ)を養子として播磨国姫路新田藩初代藩主・本多忠刻(ほんだただとき)に出仕させ、1626年(寛永3年)に播磨の地侍・田原久光の次男・伊織(いおり)を養子として播磨国明石藩主・小笠原忠真(おがさわらただざね)に出仕させました。小笠原忠真の客分となり、1638年(寛永15年)の島原の乱(しまばらのらん)で養子・伊織とともに軍監として従軍しました。1640年(寛永17年)に肥後国熊本藩初代藩主・細川忠利(ほそかわただとし)に客分として熊本に招かれ、熊本城東部に隣接する千葉城で「兵法三十五箇条(ひょうほうさんじゅうごかじょう)」をまとめ、熊本市近郊の金峰山(きんぽうざん)にある霊巌洞(れいがんどう)にしばしば籠って兵法伝書「五輪書」を執筆しました。亡くなる数日前に自誓書とも言われる「独行道(どっこうどう)」をまとめ、「五輪書」とともに弟子・寺尾孫之允(てらおまごのじょう)に与え、1645年(正保2年)6月13日に千葉城で亡くなりました。なお宮本武蔵は剣術以外にも書・画どにも優れ、いずれも国の重要文化財に指定されている「紙本墨画鵜図(しほんぼくがうず)」・「紙本墨画枯木鳴鵙図(しほんぼくがこぼくめいげきず)」・「紙本墨画紅梅鳩図(しほんぼくがこうばいはとず)」などを描きました。
●退蔵院本堂は桁行約16.9メートル・梁間約10.9メートルで、入母屋造(いりもやづくり)のこけら葺(こけらぶき)です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
こけら葺は木材の薄板を使って屋根を葺く方法です。こけら葺は板葺(いたぶき)の一種です。板葺では板厚が2~3ミリの場合にこけら葺、板厚が4~7ミリの場合に木賊葺(とくさぶき)、板厚が1~3センチの場合に栩葺(とちぶき)と言われています。板葺にはヒノキ・サワラ・スギ・エノキ・トクサ・クヌギなどが用いられます。板葺は古墳時代から屋根に用いられるようになったとも言われ、茅葺(かやぶき)に次いで古いとも言われています。
退蔵院