天球院本堂・天球院見どころ(修学旅行・観光)

天球院本堂

●天球院本堂は1922年(大正11年)4月13日に国の重要文化財に指定されました。
●天球院本堂は江戸時代前期の寛永年間(1624年~1643年)に建立されました。天球院は1631年(寛永8年)に備前岡山藩初代藩主・池田光政(いけだみつまさ)が伯母・天球院の為に創建し、本堂が建立されたと言われています。本堂には狩野山楽(かのうさんらく)・狩野山雪(かのうさんせつ)筆とも言われる襖絵・杉戸絵152面が飾られています。
池田光政は1609年(慶長14年)5月10日に播磨姫路藩第2代藩主・池田利隆(いけだとしたか)と江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)の養女・鶴姫(榊原康政(さかきばらやすまさ)の娘)の長男として岡山城で生まれました。1611年(慶長16年)に江戸で徳川秀忠に謁見し、1613年(慶長18年)に祖父・池田輝政(いけだてるまさ)が亡くなると父・池田利隆とともに岡山城から姫路城に移りました。同年に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)にも父・池田利隆とともに謁見しました。1616年(元和2年)に父・池田利隆が亡くなると江戸幕府から家督相続を許され、播磨姫路藩(42万石)第3代藩主になるが、1617年(元和3年)に幼少の為に因幡鳥取藩(32万5千石)に減転封になりました。1623年(元和9年)に元服し、江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)の偏諱(へんき)を拝受し、「光政」と名乗りました。1628年(寛永5年)に播磨国姫路新田藩初代藩主・本多忠刻(ほんだただとき)の娘で、徳川秀忠の養女・勝子(かつこ・円盛院(えんせいいん))を正室に迎えました。1632年(寛永9年)に叔父で、備前岡山藩2代藩主・池田忠雄(いけだただかつ)が亡くなると備前岡山藩に移封され、従弟で、池田忠雄の子・池田光仲(いけだみつなか)が因幡鳥取藩に移封されました。1641年(寛永18年)に全国初の藩校・花畠教場(はなばたけきょうじょう)を開校し、1645年(正保2年)に全国初の東照宮(とうしょうぐう)を岡山城の鎮守として勧請し、1670年(寛文10年)に日本最古の庶民の学校・閑谷学校(しずたにがっこう)を開校しました。池田光政は儒教(じゅきょう)を信奉し、陽明学(ようめいがく)学者・熊沢蕃山(くまざわばんざん)を招聘し、57年間に渡って藩政改革や新田開発・殖産興業などに努め、質素倹約を旨とする「備前風」を広めました。なお池田光政は1672年(寛文12年)に嫡男・池田綱政(いけだつなまさ)に家督を譲って隠居し、1682年(天和2年)6月27日に亡くなりました。
●天球院本堂は桁行約21.2メートル・梁間約14.0メートルで、入母屋造(いりもやづくり)の桟瓦葺(さんがわらぶき)です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。
桟瓦葺は平瓦と丸瓦を一体化させた波型の桟瓦を使用して屋根を葺く方法です。ちなみに本瓦葺は平瓦と丸瓦を交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。
天球院

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