天龍寺中門・天龍寺見どころ(修学旅行)

天龍寺中門

●天龍寺中門は1988年(昭和63年)4月15日に京都府指定文化財に指定されました。
●天龍寺中門は「諸堂再建覚書」によると江戸時代初期の1602年(慶長7年)に建立されたと言われています。天龍寺中門は江戸時代後期の1815年(文化12年)の火災や1864年(元治元年)の禁門の変で焼失を免れ、天龍寺山内で古い伽藍のひとつと言われています。
禁門の変は1864年(元治元年)に長州藩と幕府方が京都御所付近で行った戦闘です。1863年(文久3年)の八月十八日の政変(はちがつじゅうはちにちのせいへん)により、尊王攘夷(そんのうじょうい)を主張する長州藩は公武合体派の幕府方(薩摩藩・会津藩など)によって京都から追放され、翌1864年(元治元年)に長州藩が会津藩藩主で、京都守護職・松平容保(まつだいらかたもり)らを排除する為に挙兵し、京都市内で市街戦が繰り広げられました。京都御所の御門付近が激戦地だったことから禁門の変・蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)と言われています。また元号から元治の変(げんじのへん)とも言われています。長州藩は京都御所を目指して進撃し、当初優位だったが、薩摩藩の来襲によって敗退し、長州藩は全面的に撤退ししました。天龍寺には長州藩の家老・国司親相(くにしちかすけ)、遊撃隊総督・来島又兵衛(きじま またべえ)らが兵を集めて陣営を構えました。天龍寺は薩摩藩の砲火によって伽藍の大部分が焼失しました。なお国司親相は敗戦後の天龍寺で「はかなくも 風の前の 燈火(ともしび)の 消えゆることのみ 待つ我が身かな」と詠んだそうです。
●天龍寺中門は切妻造(きりづまづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。天龍寺中門は親柱が棟木(むなぎ)を受ける禅宗様式の門です。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮(いせじんぐう)・出雲大社(いづもたいしゃ)などの社殿に採用されています。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造(よせむねづくり)よりも格式が上とも言われています。なお切妻造は世界各地で見られる屋根の形式です。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
禅宗様は鎌倉時代に禅宗とともに北宋(中国)から日本に伝わった建築様式です。禅宗様は全体に木割(きわり)が細く、詰め組の組み物を多く配し、木鼻(きばな)・拳鼻(こぶしばな)・刳り形(くりかた)・桟唐戸(さんからど)・花頭窓(かとうまど)・扇垂木(おうぎだるき)などの装飾的な造作が特徴になっています。山口県下関市・功山寺(こうざんじ)の仏殿(国宝)が日本最古の禅宗様の建築です。なお禅宗様は唐様 (からよう) とも言われています。
天龍寺見どころ

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