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天龍寺後醍醐天皇菩提塚・天龍寺見所(修学旅行・観光)
天龍寺後醍醐天皇菩提塚
●天龍寺後醍醐天皇菩提塚は多宝殿(たほうでん)前で、枝垂桜(しだれざくら)の傍にあります。ちなみに天龍寺は1339年(延元4年・暦応2年)に室町幕府初代将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)が南朝初代で、第96代・後醍醐天皇(ごだいごてんのう)を弔う為、夢窓国師(むそうこくし)・夢窓疎石(むそうそせき)を開山として創建しました。
第96代・後醍醐天皇は1288年(正応元年)11月26日(旧暦11月2日)に大覚寺統(だいかくじとう)の第91代・後宇多天皇(ごうだてんのう)と五辻忠子(いつつじちゅうし)の第2皇子として生まれました。1302年(正安4年)に親王宣下を受け、1303年(嘉元元年)に三品に叙品され、1304年(嘉元2年)に大宰府(だざいふ)の長官・大宰帥(だざいのそち)になり、帥宮(そちのみや)と言われました。1308年(徳治3年)に持明院統(じみょういんとう)の第95代・花園天皇(はなぞのてんのう)が即位すると皇太子になり、1318年(文保2年)に第95代・花園天皇が譲位すると31歳で第96代・後醍醐天皇に即位しました。即位後は後宇多法皇(第91代・後宇多天皇)が院政を行っていたが、1321年 (元亨元年) に後宇多法皇の院政を停止し、天皇の親政を始めました。吉田定房(よしださだふさ)・北畠親房(きたばたけちかふさ)・万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)・日野資朝(ひのすけとも)・日野俊基(ひのとしもと)らの人材を集めて記録所を再興し、政治改革を始め、学問・武芸の振興に努めました。また鎌倉幕府打倒を図ったが、1324年(正中元年)の正中の変(しょうちゅうのへん)・1331年(元弘元年)の元弘の乱(げんこうのらん)に失敗し、1332年(正慶元年)に隠岐(おき)に流されました。鎌倉幕府は三種の神器を持って第96代・後醍醐天皇が京都から逃亡するとただちに廃位とし、皇太子・量仁親王(かずひとしんのう)が北朝初代・光厳天皇を即位させました。その後隠岐を脱出し、1333年(元弘3年)に鎌倉幕府が滅ぶと京都に戻り、建武の新政(けんむのしんせい・建武の中興(けんむのちゅうこう))を開始しました。しかし1336年(建武2年)に室町幕府初代将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)と対立し、京都を脱出して奈良・吉野に南朝を樹立し、南北朝時代(1336年(建武3年・延元元年)~1392年(明徳3年・元中9年))が始まりました。第96代・後醍醐天皇は1339年(延元4年・暦応2年)9月19日(旧暦8月16日)に退勢を挽回(ばんかい)できず、悲運の内に50歳で吉野で崩御しました。陵所は奈良県吉野郡吉野町大字吉野山字塔ノ尾・如意輪寺(にょいりんじ)内にある塔尾陵(とうのおのみささぎ)です。
多宝殿は1934年(昭和9年)に管長・関精拙老師が建立しました。多宝殿はかつて亀山上皇(第90代・亀山天皇)の離宮が営まれ、南朝初代で、第96代・後醍醐天皇の学問所あった場所と言われています。多宝殿は第96代・後醍醐天皇の吉野行宮時代の紫宸殿様式と伝えられています。なお多宝殿には第96代・後醍醐天皇の木像が安置されています。
【天龍寺 備考】
*参考・・・天龍寺(拝観料・アクセス・歴史概要・見どころ・・・)ホームページ
●天龍寺の歴史(創建から現在)を紹介しています。
天龍寺歴史(足利尊氏・夢窓疎石)
●天龍寺の見どころ(庭園・法堂など)を紹介しています。
天龍寺見どころ(庭園・法堂など)