天龍寺法堂・天龍寺見どころ

天龍寺法堂

●天龍寺法堂は1864年(元治元年)の禁門の変(きんもんのへん)によって焼失し、明治時代に江戸時代後期に建立された雲居庵禅堂(うんごあんぜんどう・選佛場(せんぶつじょう))を移して再建されました。
禁門の変は幕末(江戸時代末期)の1864年(元治元年)に長州藩と幕府方が京都御所付近で行った戦闘です。1863年(文久3年)の八月十八日の政変(はちがつじゅうはちにちのせいへん・文久の政変(ぶんきゅうのせいへん))により、尊王攘夷(そんのうじょうい)を主張する長州藩は公武合体派の幕府方(薩摩藩・会津藩など)によって京都から追放され、翌1864年(元治元年)に長州藩が会津藩藩主で、京都守護職・松平容保(まつだいらかたもり)らを排除する為に挙兵し、京都市内で市街戦が繰り広げられ、約3万戸が焼失しました。京都御所の御門付近が激戦地だったことから禁門の変・蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)と言われています。また元号から元治の変(げんじのへん)とも言われています。長州藩は京都御所を目指して進撃し、当初優位だったが、薩摩藩の来襲によって敗退し、長州藩は全面的に撤退ししました。その後長州藩は朝敵になり、第一次長州征討が行われます。天龍寺には長州藩の家老・国司親相(くにしちかすけ)、遊撃隊総督・来島又兵衛(きじま またべえ)らが兵を集めて陣営を構えました。天龍寺は薩摩藩の砲火によって伽藍の大部分が焼失しました。なお国司親相は敗戦後の天龍寺で「はかなくも 風の前の 燈火(ともしび)の 消えゆることのみ 待つ我が身かな」と詠んだそうです。
一般的に法堂は寺院で僧侶が経典の講義や説教などをする堂塔です。法堂は禅宗寺院で用いられ、禅宗寺院以外では講堂(こうどう)と言われています。講堂は通常、中国・唐時代の伽藍配置に倣って、金堂(本堂)の背後に建立されています。講堂は奈良時代に建立が始まり、鎌倉時代以後にはほとんど建立されなくなったが、禅宗寺院で仏殿の背後に法堂として建立されました。講堂で講義する際には本尊を安置し、講師が本尊に向かい、礼盤(らいばん)に座って講義を行いました。なお講堂は多くの僧侶が参集することから金堂よりも大きく建立されるが、装飾性は少い堂塔です。
●天龍寺法堂にはかつては日本画家・鈴木松年(すずきしょうねん)が描いた雲龍図がありました。現在は法堂移築100年・夢窓国師650年遠諱記念事業として、日本画家・加山又造(かやままたぞう)が描いた雲龍図があります。
雲龍図は龍が仏法を守護する八部衆(はちぶしゅう)のひとつとされていることから法堂(はっとう)などの天井に描かれています。法堂は僧侶が経典の講義や説教などをする場で、雨を呼ぶ水神の龍が仏法の教えを雨のように降らすと言われています。また水神の龍が寺院を火から守るとの意味も込められていると言われています。なお八部衆は天(てん)・夜叉(やしゃ)・乾闥婆(けんだつば)・阿修羅(あしゅら)・迦楼羅(かるら)・緊那羅(きんなら)・摩ご羅伽(まごらが)です。
天龍寺見どころ

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