天龍寺大方丈・天龍寺見どころ

天龍寺大方丈

●天龍寺大方丈は1864年(元治元年)の禁門の変(きんもんのへん)によって焼失し、1899年(明治32年)に再建されました。小方丈は1924年(大正13年)に建立されました。大方丈は正面約30メートル・奥行き約20メートルで、山内最大の建物です。
禁門の変は幕末(江戸時代末期)の1864年(元治元年)に長州藩と幕府方が京都御所付近で行った戦闘です。1863年(文久3年)の八月十八日の政変(はちがつじゅうはちにちのせいへん・文久の政変(ぶんきゅうのせいへん))により、尊王攘夷(そんのうじょうい)を主張する長州藩は公武合体派の幕府方(薩摩藩・会津藩など)によって京都から追放され、翌1864年(元治元年)に長州藩が会津藩藩主で、京都守護職・松平容保(まつだいらかたもり)らを排除する為に挙兵し、京都市内で市街戦が繰り広げられ、約3万戸が焼失しました。京都御所の御門付近が激戦地だったことから禁門の変・蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)と言われています。また元号から元治の変(げんじのへん)とも言われています。長州藩は京都御所を目指して進撃し、当初優位だったが、薩摩藩の来襲によって敗退し、長州藩は全面的に撤退ししました。その後長州藩は朝敵になり、第一次長州征討が行われます。天龍寺には長州藩の家老・国司親相(くにしちかすけ)、遊撃隊総督・来島又兵衛(きじま またべえ)らが兵を集めて陣営を構えました。天龍寺は薩摩藩の砲火によって伽藍の大部分が焼失しました。なお国司親相は敗戦後の天龍寺で「はかなくも 風の前の 燈火(ともしび)の 消えゆることのみ 待つ我が身かな」と詠んだそうです。
一般的に方丈は1丈(約3メートル)四方の部屋を意味し、禅宗寺院の住持(じゅうじ・住職)や長老の居室を指します。方丈は大乗仏教の経典「維摩経(ゆいまきょう)」にインドの在家仏徒・維摩居士(ゆいまこじ)が神通力で1丈四方の部屋に文殊菩薩(もんじゅぼさつ)など8,000人の菩薩や仏弟子である500人の声聞(しょうもん)を招き入れたという故事に由来しています。そこから方丈に全宇宙が内在し、住職の居室を方丈というようになりました。方丈は堂頭(どうちょう)・堂上(どうじょう)・正堂(しょうどう)・函丈(かんじょう)とも言われています。なお「維摩経」は仏教伝来とともに伝わったとも言われ、聖徳太子(しょうとくたいし)の注釈書「維摩経義疏(三経義疏(さんぎょうぎしょ))」が残されています。
●天龍寺大方丈は平安時代後期作と言われている本尊・釈迦如来坐像(重要文化財)を安置しています。釈迦如来坐像は天龍寺創建よりも古く、天龍寺が見舞われた8度の火災から免れ、天龍寺に祀られる仏像の中で最も古い仏像です。
お釈迦さま(釈迦牟尼 ゴータマ・シッダッタ)は仏教の開祖で、世界四聖の一人です。ちなみに仏陀とは悟った者・目覚めた者を意味するお釈迦様の尊称です。お釈迦さまは約2,500年前の旧暦の4月8日、インド国境に近いネパールのルンビニーの花園で、父・シャカ族の国王である浄飯王(じょうばんのう・シュッドーダナ)と母・摩耶夫人(まやふじん・マーヤー)との間に生まれました。お釈迦さまは生まれてすぐに7歩歩き、右手で天、左手で地を指し、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と唱えたとも言われています。29歳で出家し、35歳の旧暦の12月8日の夜明け前、明星出現と同時にブッダガヤの菩提樹の下で、悪魔の誘惑に負けずに悟りを開きました。その後約45年間に渡り、インド各地を回って教えを説き、クシナーラで亡くなりました。お釈迦さまの遺骸は火葬され、遺骨は各地のストゥーパに分けて祀られたそうです。
天龍寺見どころ

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