天龍寺多宝殿・天龍寺見どころ(修学旅行)

天龍寺多宝殿

●天龍寺多宝殿は1934年(昭和9年)に管長・関精拙(せきせいせつ)老師が建立されました。天龍寺多宝殿は南朝初代で、第96代・後醍醐天皇の吉野行宮時代の紫宸殿(ししんでん)様式と伝えられています。
関精拙は1877年(明治10年)1月18日に絵師・株本弁十郎安久と母・千代の三男四女の末っ子として兵庫県浜坂町(兵庫県美方郡新温泉町)で生まれました。1879年(明治12年)に臨済宗(りんざいしゅう)天龍寺派の天隣寺(てんりんじ)の住職・関祖舜(せきそしゅん)の養子になり、1882年(明治15年)に関祖舜のもとで得度し、元浄と名付けられました。前住職・仁舟和尚から経典祖録の教えを受け、1886年(明治19年)から正法寺(しょうぼうじ)の楽々北隠和尚に学びました。その後橋本峨山(はしもとがざん)・高木竜淵(たかぎりゅうえん)に学び、1900年(明治33年)に天隣寺の住職になり、その後徳光院(とくこういん)の住職になり、1916年(大正5年)に天龍寺の塔頭・慈済院(じさいいん)の住職になりました。1920年(大正9年)にインドを訪れて四大聖地などの各仏跡を巡拝しました。1922年(大正11年)に天龍僧堂師家・臨済宗天龍寺派管長になりました。関精拙は漢詩・書画を得意としました。なお関精拙は1945年(昭和20年)10月2日に亡くなりました。
●天龍寺多宝殿には南朝初代で、第96代・後醍醐天皇の木像が安置されています。天龍寺多宝殿はかつて亀山上皇(第90代・亀山天皇)の離宮が営まれ、第96代・後醍醐天皇の学問所だった場所と言われています。
第96代・後醍醐天皇は鎌倉時代後期の1288年(正応元年)11月26日に大覚寺統(だいかくじとう)の第91代・後宇多天皇と五辻忠子(いつつじちゅうし)の第2皇子として生まれました。1302年(正安4年)に親王宣下を受け、1304年(嘉元2年)に大宰府(だざいふ)の長官・大宰帥(だざいのそち)になり、帥宮(そちのみや)と言われました。1308年(徳治3年)に持明院統(じみょういんとう)の第95代・花園天皇が即位すると皇太子になり、1318年(文保2年)に第95代・花園天皇が譲位すると第96代・後醍醐天皇に即位しました。即位後は後宇多法皇(第91代・後宇多天皇)が院政を行っていたが、1321年 (元亨元年) に後宇多法皇の院政を停止し、天皇の親政を始めました。吉田定房(よしださだふさ)・北畠親房(きたばたけちかふさ)らの人材を集めて記録所を再興し、政治改革を始めました。また鎌倉幕府打倒を図ったが、1324年(正中元年)の正中の変・1331年(元弘元年)の元弘の乱に失敗し、1332年(正慶元年)に隠岐(おき)に流されました。その後隠岐を脱出し、1333年(元弘3年)に鎌倉幕府が滅ぶと京都に戻り、建武の新政(けんむのしんせい・建武の中興(けんむのちゅうこう))を開始しました。しかし室町幕府初代将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)と対立し、京都を脱出して奈良・吉野に南朝を樹立し、南北朝時代が始まりました。第96代・後醍醐天皇は1339年(延元4年・暦応2年)9月19日に退勢を挽回(ばんかい)できずに悲運の内に吉野で崩御しました。
天龍寺見どころ

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