天龍寺・化野念仏寺散策コース(竹林の道・落柿舎・二尊院)

天龍寺・化野念仏寺散策コース
天龍寺・化野念仏寺散策コースは世界遺産である天龍寺と約8,000体の石仏・石塔が西院の河原にある化野念仏寺を結ぶ散策コースです。南側の天龍寺から北側の化野念仏寺までは距離が約2.5キロあり、徒歩で約35分掛かります。天龍寺から化野念仏寺までは少し昇っているが、比較的楽に散策することができます。天龍寺・化野念仏寺散策コース周辺には「お亀石」がパワースポットの野宮神社・竹林が生い茂る竹林の小径・向井去来の草庵だった落柿舎・いずれも藤原定家の小倉山荘・時雨亭だったとも言われる二尊院と常寂光寺・「平家物語」にも登場する祇王寺などがあります。紅葉シーズンには天龍寺・二尊院・常寂光寺・祇王寺で紅葉狩りするのがおすすめです。竹林の小径は季節に関係なく、寄り道するのがおすすめです。なお化野念仏寺では例年8月の最終土曜日・日曜日に千灯供養が行われ、それに合わせて愛宕古道街道灯しが行われ、愛宕神社の一之鳥居から清凉寺(嵯峨釈迦堂)までの旧愛宕街道に提灯・ジャンボ提灯などが飾られます。
【天龍寺・化野念仏寺散策コース】
【天龍寺(てんりゅうじ) 概要】
天龍寺は嵯峨天皇の后・檀林皇后が創建した日本初の禅寺・壇林寺、醍醐天皇の皇子・前中書王兼明親王の亀山山荘、後嵯峨上皇の仙洞御所、亀山上皇の離宮・亀山殿があった場所です。天龍寺は1339年(延元4年・暦応2年)に北朝の足利尊氏が南朝の後醍醐天皇を弔う為、夢窓疎石を開山として創建しました。尊氏は後醍醐天皇による建武の新政で対立し、後醍醐天皇が追討の命を出したが、夢窓疎石の強い勧めによって後醍醐天皇を弔う為に天龍寺を創建しました。当初、元号から暦応資聖禅寺と称したが、尊氏の弟・直義が見たという大堰川から天に昇る金龍の夢から天龍資聖禅寺に改められました。室町時代に京都五山に列せられ、最盛期に寺域が約950万平方メートル、子院150か寺に及んだとも言われています。その後火災や兵火に度々見舞われ、1864年(元治元年)の禁門の変で伽藍の多くが焼失し、明治時代以降に伽藍が再建されました。
天龍寺(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)・天龍寺見どころ
【野宮神社(ののみやじんじゃ) 概要】
野宮神社は天皇の代理で、伊勢神宮に仕える斎王が伊勢神宮に向かう前に身を清めた「野宮」に由来しています。「野宮」の場所は天皇の即位の度に決められ、毎回違っていたが、嵯峨天皇の仁子内親王からは野宮神社に「野宮」が作られるようになりました。南北朝時代に兵火により、後醍醐天皇の皇女・祥子内親王を最後に斎王制度が廃絶され、「野宮」は野宮神社になって勅祭が行われるようになりました。なお野宮神社は竹林の道の東端に位置しています。
野宮神社(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)
【竹林の小径(ちくりんのこみち) 概要】
竹林の小径は東側に位置する野宮神社と西側に位置する大河内山荘庭園を結ぶ長さ約300メートルの小径です。竹林の小径は北側に山陰本線・嵯峨野トロッコ列車が走り、南側に天龍寺が建立されたエリアにあります。竹林の小径では両側に竹林が広がり、晴れた日に木漏れ日が差し、風がある日に葉音が感じられます。竹林の小径には国内外から多くの観光客が訪れ、嵐山・嵯峨野エリア随一の観光名所になっています。
竹林の小径(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)
【落柿舎(らくししゃ) 概要】
落柿舎は竹林の道の北側にあります。落柿舎は俳人・松尾芭蕉の弟子で、俳人・向井去来(むかいきょらい)の草庵でした。落柿舎では周りに植えられていた柿の実が一夜の内にほとんど落ちたことから落柿舎と言われるようになりました。松尾芭蕉は1691年(元禄4年)4月18日から5月4日まで滞在し、「嵯峨日記(さがにっき)」を記したと言われています。その際に松尾芭蕉は愛宕神社・野宮神社の嵯峨祭を見物したとも言われています。
落柿舎(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)
【二尊院(にそんいん) 概要】
二尊院は小倉百人一首の撰者・藤原定家の小倉山荘・時雨亭があった場所とも言われています。二尊院は承和年間に慈覚大師・円仁が嵯峨天皇の勅願によって創建したと言われています。寺号は「発遣の釈迦」・「来迎の阿弥陀」の二如来に由来しています。鎌倉時代に法然上人が住し、法然上人の高弟・湛空上人らが再興したと言われています。1227年(嘉禄3年)に法然上人の遺骸を天台宗の僧兵から守る為、法然廟所から移されたと言われています。応仁の乱で焼失し、1521年(永正18年)に三条西実隆が本堂・唐門を再建しました。二尊院は明治維新まで黒戸四ヶ院として、京都御所内の御黒戸を守りました。
二尊院(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)
【常寂光寺(じょうじゃっこうじ) 概要】
常寂光寺は小倉百人一首の撰者・藤原定家の小倉山荘・時雨亭があった場所とも言われています。常寂光寺は慶長年間に本圀寺16世・日禎上人が隠棲の地として開いたのが起源と言われています。角倉了以・角倉栄可が小倉山山麓の土地を寄進し、慶長年間に小早川秀秋の助力よって伏見城・客殿が移されて本堂が建立されました。1616年(元和2年)に本圀寺客殿の南門が移築されて仁王門が建立されました。仁王像は仏師・運慶作とも言われ、目と足腰の病気にご利益があるとされています。
常寂光寺(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)
【祇王寺(ぎおうじ) 概要】
祇王寺は平安時代に平清盛の寵愛を受けた祇王と仏御前が出家の為に入寺したとも言われています。その後法然上人の門弟・良鎮が創建した往生院があった場所と言われています。その後荒廃し、1868年(明治元年)に一時廃寺になり、大覚寺が残された墓や仏像を管理しました。1895年(明治28年)に北垣国道が別荘一棟を寄付し、寺院に改められて再興されました。
祇王寺(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)
【化野念仏寺(あだしのねんぶつじ) 概要】
化野念仏寺は811年(弘仁2年)に真言宗の宗祖である弘法大師・空海が五智山如来寺を創建し、野ざらしになっていた遺骸を埋葬したのが起源と言われています。弘法大師・空海は供養の為に千体の石仏を埋め、五智如来の石仏を建立したとも言われています。また小倉山周辺を金剛界、曼荼羅山周辺を胎蔵界として、千体の石仏を集め、中央を流れる曼荼羅川沿いに五智如来の石仏を建立したとも言われています。鎌倉時代初期に浄土宗の開祖・法然上人が念仏道場を開き、真言宗から浄土宗に改め、寺号も念仏寺に改めたと言われています。その後1712年(正徳2年)に寂道が本堂を再建しました。1903年(明治36年)頃に化野に散在していた無縁仏が掘り出され、境内に集められた約8千体の石仏・石塔は賽の河原に模し、「西院の河原」と名付けられました。
化野念仏寺(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)
【天龍寺・化野念仏寺散策コース 備考】
散策コースではグーグルマップを使用して、スポットを紹介しています。