東福寺十三重石塔・東福寺見どころ

東福寺十三重石塔

●東福寺十三重石塔は1960年(昭和35年)2月9日に国の重要文化財に指定されました。
●東福寺十三重石塔には「康永二癸未仏生日・・・造立」と刻まれ、南北朝時代の1343年(康永2年)に建立されたと言われています。東福寺十三重石塔には東福寺開基・九条道家(くじょうみちいえ)が建立したも言われる伝承があります。九条道家が病になった際、九条家ゆかりの藤原家の先祖という比良の魔王(比良明神・天狗)が降臨し、病の原因が怨霊にあると伝え、怨霊の鎮め方を教えたとこと病が完治し、比良の魔王のお告げで十三重石塔を建立したとも言われています。なお十三重石塔は塔高約442センチの花崗岩(かこうがん)製です。
九条道家は鎌倉時代初期の1193年(建久4年)7月28日に太政大臣・九条良経(くじょうよしつね)と一条能保(いちじょうよしやす)の娘の次男として生まれました。太政大臣で、祖父・九条兼実(くじょうかねざね)に寵愛され、その手元で養育されました。1203年(建仁3年)に元服して正五位下に叙任され、その後侍従(じじゅう)・左近衛中将(さこんえのちゅうじょう)・権中納言(ちゅうなごん)と昇進しました。1206年(元久3年)に父・九条良経が急死すると家督を継ぎました。1209年(承元3年)に姉・九条立子(くじょうりっし)が皇太弟・守成親王(第84代・順徳天皇)の妃になるとその後左近衛大将(さこんえのだいしょう)・権大納言(だいなごん)・内大臣(ないだいじん)・右大臣(うだいじん)に昇進しました。1218年(建保6年)に姉・立子が懐成親王(第85代・仲恭天皇)が生むと東宮補佐役になり、左大臣に昇進しました。1219年(建保7年)に第84代・順徳天皇が譲位して甥・懐成親王が第85代・仲恭天皇になると摂政に昇進しました。また義父・西園寺公経(さいおんじきんつね)が鎌倉幕府との関係が深かったことや母・一条能保の娘が鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(みなもとのよりとも)の姪に当たることから1219年(建保7年)に三男・藤原頼経(ふじわらのよりつね)が鎌倉幕府第4代将軍に要請され、1225年(嘉禄元年)に鎌倉幕府第4代将軍になりました。1221年(承久3年)に後鳥羽上皇(第82代・後鳥羽天皇)が鎌倉幕府執権・北条義時(ほうじょうよしとき)に対して討伐の兵を挙げた承久の乱(じょうきゅうのらん)が起こると第85代・仲恭天皇が廃位され、九条道家も摂政を罷免されました。しかし1228年(安貞2年)に関白に任命され、翌年に長女・九条しゅん子(くじょうしゅんし子・藻璧門院(そうへきもんいん))が第86代・後堀河天皇の女御になりました。1231年(寛喜3年)に長男・九条教実(くじょうのりざね)に関白職を譲ったが、最大の実力者として従一位に栄進しました。1231年(寛喜3年)に長女・九条しゅん子が孫・秀仁親王(第87代・四条天皇)を生み、1232年(貞永元年)に第86代・後堀河天皇が譲位して孫・秀仁親王が第87代・四条天皇になると外祖父として実権を掌握しました。ただ摂政に昇進した長男・九条教実が亡くなり、九条道家が再び摂政になりました。1238年(嘉禎4年)に出家したが、その後も権勢を振るったが、1242年(仁治3年)に孫である第87代・四条天皇が12歳で崩御すると権勢が徐々に衰退し、三男である鎌倉幕府第4代将軍・藤原頼経が反執権(北条氏)勢力に利用され、鎌倉幕府第5代執権・北条時頼(ほうじょうときより)によって京都に追放された宮騒動で関東申次(かんとうもうしつぎ)の職を罷免されて失脚しました。また1251年(建長3年)に孫で、鎌倉幕府第5代将軍・藤原頼嗣(ふじわらのよりつぐ)などによる幕府転覆計画も発覚し、嫌疑が掛けられました。九条道家は1252年(建長4年)4月1日に亡くなりました。
東福寺見どころ

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