東福寺本堂・東福寺見どころ(修学旅行)

東福寺本堂

●東福寺本堂(仏殿兼法堂)は1881年(明治14年)に仏殿・法堂が焼失し、1917年(大正6年)から京大名誉教授・天沼俊一(あまぬましゅんいち)の設計によって再建が開始され、1934年(昭和9年)に完成しました。東福寺本堂は間口約41.4メートル・高さ約25.5メートルで、昭和の木造建築としては最大級とも言われています。なお東福寺本堂には1881年(明治14年)の火災後に東福寺の塔頭・万寿寺(まんじゅじ)から移された鎌倉時代作の本尊・釈迦三尊像が安置されています。
天沼俊一は1876年(明治9年)8月31日に東京で生まれました。1902年(明治35年)に東京帝国大学・工科大学建築学科を卒業して大学院に進みました。1906年(明治39年)に奈良古社寺修理技師になり、1918年(大正7年)に京都府古社寺修理監督技師になりました。その後1920年(大正9年)に京都帝国大学工学部の助教授になり、1923年(大正12年年)に教授になり、1936年(昭和11年)に退官しました。天沼俊一は各地の古建築を実地調査し、日本建築史研究の発展に寄与しました。また大坂城天守閣の意匠にも参加しました。天沼俊一は「家蔵瓦図録」・「国東塔講話」・「家蔵瓦図録続」・「日本建築史要」・「埃及紀行」・「印度旅行記」・「法隆寺の建築」・「日本建築史図録」・「慶長以前の石灯籠」・「日本の建築」などを記しました。なお天沼俊一は1947年(昭和22年)9月1日に亡くなりました。
万寿寺は平安時代後期の1096年(永長元年)に白河上皇(第72代・白河天皇)が六条内裏内に建立した六条御堂(ろくじょうみどう)が起源と言われています。白河上皇は第1皇女・郁芳門院(いくほうもんいん)の追善の為に仏堂の六条御堂に改めました。その後度々焼失し、鎌倉時代に十地覚空(じゅうちかくくう)とその弟子・慈一宝覚が東福寺開山である聖一国師(しょういちこくし)・円爾(えんに)に帰依し、六条御堂を万寿禅寺(万寿寺)に改めました。1273年(文永10年)に焼失し、1330年(元徳2年)に第91代・後宇多天皇の第2皇女・崇明門院(すうめいもんいん)から土地を賜って移りました。ただその後も焼失したり、衰退したりして天正年間(1573年~1593年)に東福寺山内の三聖寺に移ったが、関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命によって再び移りました。1873年(明治6年)に三聖寺が廃寺にされ、寺号を万寿寺に改めました。
●東福寺本堂(仏殿兼法堂)には鏡天井に僅か17日間で日本画家・堂本印象(どうもといんしょう)が描いた蒼龍図があります。蒼龍図は東西約22メートル・南北約11メートルの鏡天井に体長約54メートル・胴回り約6.2メートルの龍を描いたものです。
堂本印象は1891年(明治24年)12月25日に京都市で生まれました。1910年(明治43年)に京都市立美術工芸学校を卒業すると西陣織の図案を描いていたが、日本画家を志して京都市立絵画専門学校(京都市立芸術大学)に入学しました。1919年(大正8年)に帝展初出展の「深草」が入選し、帝展第3回展で「調鞠図」が特選になり、帝展第6回展で「華厳」が帝国美術院賞を受賞し、日本画家として認められました。1936年(昭和11年)に京都市立絵画専門学校の教授に就任し、1944年(昭和19年)に帝室技芸員になり、1950年(昭和25年)に日本芸術院の会員になり、1961年(昭和36年)に文化勲章を受賞しました。堂本印象は「訶梨帝母」・「木華開耶媛」・「水郷欲雨」などを描きました。堂本印象は伝統画派を研究し、戦後に伝統的画風を捨て、斬新な洋画的新画風を生み出しました。なお堂本印象は1975年(昭和50年)9月5日に亡くなりました。
東福寺見どころ

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