東福寺本坊庭園・東福寺見どころ

東福寺本坊庭園

●東福寺本坊庭園は国の名勝です。
●東福寺本坊庭園は1939年(昭和14年)に造園家・重森三玲(しげもりみれい)が作庭しました。東福寺本坊庭園は当初八相成道(はっそうじょうどう)に因んで八相の庭と称していたが、2014年(平成26年)に国の名勝に指定されることになり、名称が本坊庭園になりました。本坊庭園は1890年(明治23年)に再建された方丈の四方(北庭・東庭・西庭・南庭)に作庭されています。
●本坊庭園北庭は勅使門から方丈に向かって敷きつめられていた切石と苔を市松模様(いちまつもよう)に配した庭園です。
●本坊庭園東庭は東司で使用されていた礎石(円柱)・白川砂などで北斗七星(ほくとしちせい)を象った庭園です。
●本坊庭園西庭は白砂とサツキの刈込の市松模様の庭園です。本坊内に使われていた敷石の縁石(カズラ石)を使って井田の庭が作庭されています。
●本坊庭園南庭は蓬莱神仙思想(ほうらいしんせんしそう)に基づき、四神仙島(蓬莱(ほうらい)・瀛洲(えいしゅう)・壺梁(こりょう)・方丈(ほうじょう))と五山を表現した庭園です。
重森三玲は1896年(明治29年)8月20日に岡山県上房郡吉川村に生まれました。三玲の名前はフランスの画家であるジャン=フランソワ・ミレーに因んで改名しました。子供の頃から絵画・生け花・茶道を好み、その後日本美術学校で日本画を学び、生け花・茶道も習いました。日本美術学校卒業後に東洋大学文学部に学びました。1917年(大正6年)に画家を志し上京するが、1929年(昭和4年)に京都に移り住み、翌1930年(昭和5年)にいけばな草月流の創始者・勅使河原蒼風(てしがはらそうふう)らと「新興いけばな宣言」を起草し、いけばなの革新を提唱しました。1949年(昭和24年)に前衛いけばなの創作研究グループ・白東社(びゃくとうしゃ)を主宰し、前衛いけばな誌「いけばな藝術」を創刊しました。また日本庭園を独学で学び、1936年(昭和11年)から日本全国の庭園を調査し、500箇所に及ぶ調査から日本庭園史の先駆けになり、1939年(昭和14年)に「日本庭園史図鑑」26巻を出版し、1976年(昭和51年)に息子・重森完途(しげもりかんと)とともに「日本庭園史大系」全33巻(別巻2巻)を出版しました。重森三玲は日本庭園史の研究家だけでなく、作庭家としても活動しました。東福寺(とうふくじ)の方丈庭園・光明院(こうみょういん)の波心庭・瑞峯院(ずいほういん)の庭園などを作庭しました。なお重森三玲は1975年(昭和50年)3月12日に亡くなりました。
八相成道はお釈迦様の生涯に起こった8つの主要な出来事のことです。八相成道は「大乗義章」では昇兜率(ごうとそつ )・退来入胎・住胎中・出生・出家・成仏道・転法輪(てんぽうりん)・般涅槃とされています。また一般的に八相成道は降兜率・託胎・降誕・出家・降魔(ごうま)・成道・転法輪・入滅などともされています。
東福寺見どころ

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