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東福寺庫裏・方丈唐門・東福寺見所(修学旅行・観光)
東福寺庫裏・方丈唐門
●東福寺庫裏は1881年(明治14年)の火災で仏殿・法堂などとともに焼失し、1910年(明治43年)に第122代・明治天皇の皇后・昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)の恩賜によって再建されました。方丈唐門は1910年(明治43年)に昭憲皇太后の恩賜によって建立され、恩賜門とも言われています。
昭憲皇太后は江戸時代後期の1849年(嘉永2年)5月9日に左大臣・一条忠香(いちじょうただか)と側室・新畑民子(にいはたたみこ)の三女・一条勝子(いちじょうまさこ)として生まれました。富貴君(ふきぎみ)・富美君(ふみぎみ)などとも称し、1858年(安政5年)に寿栄君(すえぎみ)に改名しました。1867年(慶応3年)に第122代・明治天皇の女御に治定されました。一条家の家庭教師であった勤王論者で、女流漢学者・若江薫子(わかえにおこ)が姉よりも昭憲皇太后を推薦したとも言われています。1869年(明治元年)に美子(はるこ)に改名して従三位に叙され、数日後に皇后に立てられました。昭憲皇太后は明治天皇よりも3歳年上だったことから公式には1850年(嘉永3年)生まれとされました。第122代・明治天皇と昭憲皇太后の間には子女が生まれませんでした。1912年(明治45年)に第122代・明治天皇が崩御し、皇太子・嘉仁親王が第123代・大正天皇に即位すると皇太后になりました。昭憲皇太后は幼少から学問好きで、和歌・書道に秀で、「昭憲皇太后御集」が残されています。昭憲皇太后は華族女学校(学習院女子中等科・高等科)・お茶の水の東京女子師範学校(お茶の水女子大学)の設立など女子教育の振興や日本赤十字社の発展など社会事業の発展に大きく寄与しました。また産業の奨励などに尽力しました。なお昭憲皇太后は1914年(大正3年)4月9日に亡くなり、同年5月9日に昭憲皇太后と追号さました。
●東福寺庫裏は切妻造(きりづまづくり)の桟瓦葺(さんがわらぶき)です。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮(いせじんぐう)・出雲大社(いづもたいしゃ)などの社殿に採用されています。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造(よせむねづくり)よりも格式が上とも言われています。なお切妻造は世界各地で見られる屋根の形式です。
桟瓦葺は平瓦と丸瓦を一体化させた波型の桟瓦を使用して屋根を葺く方法です。ちなみに本瓦葺は平瓦と丸瓦を交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。
●東福寺方丈唐門は向唐破風(むこうからはふ)です。
一般的に唐門は切妻造(きりづまづくり)・入母屋造(いりもやづくり)の屋根に丸みをつけて造形した唐破風(からはふ)がついた門です。唐門は豪華な彫刻が施されたものは向唐門(むこうからもん)、唐破風が妻にある簡素なものは平唐門(ひららもん)と言われています。唐門は平安時代後期に見られるようになり、桃山時代が隆盛期と言われています。
唐破風は弓形のように中央部を丸みをつけ、両端が反りかえった曲線状に造形した破風です。軒唐破風は屋根本体の軒先を丸みを帯びた造形した破風です。向唐破風は屋根本体とは別に出窓のように造形した破風です。なお破風は切妻造(きりづまづくり)・入母屋造(いりもやづくり)の屋根の妻の三角形の部分です。
【東福寺 備考】
*参考・・・京都・東福寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ
●東福寺の歴史(創建から現在)を紹介しています。
東福寺歴史(九条道家・円爾)
●東福寺の見どころ(三門・通天橋など)を紹介しています。
東福寺見どころ(三門・通天橋など)