東福寺三門・東福寺見どころ(修学旅行)

●東福寺三門は1897年(明治30年)12月28日に国の重要文化財、1952年(昭和27年)3月29日に国宝に指定されました。
●東福寺三門は室町時代前期の1405年(応永12年)に室町幕府4代将軍・足利義持(あしかがよしもち)が再建しました。東福寺三門は禅寺の三門としては日本最古と言われています。東福寺三門は安土桃山時代に1596年(慶長元年)の慶長伏見地震(けいちょうふしみじしん)で損傷し、関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が四隅に柱を取り付けて補修したことから柱は太閤柱(たいこうばしら)と言われています。
足利義持は南北朝時代の1386年3月12日(元中3年・至徳3年2月12日)に室町幕府第3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)と側室・藤原慶子(ふじわらのよしこ)の子として生まれました。異母兄に尊満(そんまん)と早世した宝幢若公(ほうどうじゃくこう)がいたが、嫡男として扱われました。1394年(応永元年)12月17日に父・足利義満から将軍職を譲られ、9歳で室町幕府4代将軍に就任し、また同日に元服して正五位下・左近衛中将に叙任されました。ただ政務は父・足利義満が執りました。1395年(応永2年)に従四位になり、その後官職は急速に上昇し、1402年(応永9年)11月19日に従一位になり、1406年(応永13年)8月17日に右大将を兼務しました。その後父・足利義満と不仲であり、足利義満が異母弟・足利義嗣(あしかがよしつぐ)を偏愛したことから一時地位が危ぶまれました。1408年(応永15年)に足利義満が亡くなり、1418年(応永25年)に上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん)に加担した異母弟・足利義嗣を殺害しました。また1419年(応永26年)に足利義満が進めた日明貿易の相手国である明(中国)との国交を断絶しました。ちなみに足利義持は父・足利義満に太上法皇の称号を贈ろうとする朝議を辞しました。1423年(応永30年)3月18日に嫡子で、室町幕府第5代将軍・足利義量(あしかがよしかず)に将軍職を譲て足利氏の菩提寺・等持院(とうじいん)で出家しました。ただ1425年(応永32年)2月27日に19歳で足利義量が急死すると再び政務を執りました足利義持は1428年(応永35年)2月3日に亡くなりました。足利義持には嫡子がなく、後継者を指名しなかったことから次期将軍は前代未聞のくじ(神判)による跡目決定になりました。
豊臣秀吉は1537年(天文6年)3月17日(旧暦2月6日)に織田信長(おだのぶなが)の足軽(百姓)・木下弥右衛門(きのしたやえもん)と美濃の鍛冶・関兼貞の娘・なか(仲・天瑞院(てんずいいん))との間に生まれました。1554年(天文23年)頃から織田信長に仕え、1561年(永禄4年)に浅野長勝(あさのながかつ)の養女・北政所(ねね)と恋愛結婚しました。その後戦功を重ねて頭角を現し、1582年(天正10年)に明智光秀(あけちみつひで)が織田信長に謀反を起こした本能寺の変(ほんのうじのへん)後、山崎の戦い(やまざきのたたかい)で明智光秀を破り、四国・九州・関東・奥羽を平定し、1590年(天正18年)に天下を統一を成し遂げ、1598年(慶長3年)9月18日(旧暦8月18日)に62歳で伏見城内で亡くなりました。なお豊臣秀吉は1585年(天正13年)に関白、翌1586年(天正14年)に豊臣姓を賜って、太政大臣になりました。
一般的に三門(山門)は一切は空と悟る空門(くうもん)・一切の執着を離れた無相門(むそうもん)・一切の願求(がんぐ)の念を捨てる無願門(むがんもん)の三境地を経て、仏国土(ぶっこくど)に至る門・三解脱門(さんげだつもん)のことです。三門は寺院の正門で、禅宗七堂伽藍(山門・本尊を安置する仏殿(金堂)・僧侶が仏教を講義する法堂(はっとう)・坐禅など仏道修行に励む僧堂(そうどう)・僧侶が居住する庫裏(くり)・トイレである東司(とうす)・浴室である浴室(よくどう))に数えられています。なお山門は本来山上に建てられた寺院の門のことを言っていたが、現在は平地に建てられた寺院の門のことも言います。
東福寺見どころ

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