東福寺通天橋・東福寺見どころ

東福寺通天橋

●東福寺通天橋は1959年(昭和34年)の台風で崩壊し、1961年(昭和36年)に再建されました。東福寺通天橋はかつて南北朝時代の1380年(康暦2年・天授6年)に相国寺第2世・春屋妙葩(しゅんおくみょうは)が洗玉澗(せんぎょくかん)を渡る労苦から僧侶を救う為、南宋(中国)径山(きんざん)の橋を模して架けたと言われています。春屋妙葩は橋を「通天橋」と名付け、入口には春屋妙葩筆の「通天橋」が掲げられていたそうです。ちなみにかつての通天橋は鶯張り(うぐいすばり)だったとも言われています。なお通天橋は偃月橋(えんげつきょう)・臥雲橋(がうんきょう)とともに東福寺三名橋と言われています。
春屋妙葩は鎌倉時代後期の1312年(応長元年)1月31日に甲斐国(山梨県)の生まれました。7歳の時に美濃国・虎渓山(こけいざん)永保寺(えいほうじ)で法華経(ほけきょう)を学び、12歳の時に甲斐国・恵林寺(えりんじ)の道満(どうまん)に学び、17歳の時に母方の叔父で、天龍寺(てんりゅうじ)開山ある夢窓国師(むそうこくし)・夢窓疎石(むそうそせき)のもとで出家し、鉗鎚(けんつい)を受けました。その後渡来僧である竺仙梵僊(じくせんぼんせん)・清拙正澄(せいせつしようちよう)などから大陸禅を学びました。夢窓疎石の法を嗣いで天龍寺の住職になり、天龍寺を再興しました。1369年(応安2年・正平24年)に室町幕府管領・細川頼之(ほそかわよりゆき)と南禅寺の楼門(山門)を巡って対立して天龍寺の住職を辞し、丹後国・雲門寺(うんもんじ)に隠棲しました。その後1379年(康暦元年・天授5年)の康暦の政変(こうりゃくのせいへん)で細川頼之が失脚すると南禅寺(なんぜんじ)の住職になりました。室町幕府第3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)の帰依を受け、相国寺(しょうこくじ)が創建されると叔父・夢窓疎石が開山、春屋妙葩が第2世になりました。春屋妙葩は五山十刹制度を作り、多くの弟子を育て五山派を興しました。また室町幕府が日明貿易を行う際に幕府の外交顧問にもなりました。なお春屋妙葩は1388年(元中5年・嘉慶2年)9月12日に亡くなりました。
●東福寺通天橋は長さ約26メートルの木造橋廊で、切妻造(きりづまづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。東福寺通天橋は橋脚部分が鉄筋コンクリート造です。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮(いせじんぐう)・出雲大社(いづもたいしゃ)などの社殿に採用されています。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造(よせむねづくり)よりも格式が上とも言われています。なお切妻造は世界各地で見られる屋根の形式です。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
東福寺見どころ

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