東寺大黒堂・東寺見どころ(修学旅行)

東寺大黒堂

●東寺大黒堂は大師堂(御影堂・不動堂)西側に建立されています。東寺大黒堂には真言宗の宗祖である弘法大師・空海が自ら刻んだとも言われる三面大黒天を祀っています。三面大黒天は大黒天(だいこくてん)・毘沙門天(びしゃもんてん)・弁財天(べんざいてん)の三神が合体したもので、三神のご利益が一度に授かることができるとも言われています。ちなみに大黒天は大地の神で、大地は糧(かて)・土は槌(つち)を表し、それを振ると福寿円満(ふくじゅえんまん)が訪れます。毘沙門天は四天王(してんのう)の北方の守護神で、財宝を司る神です。弁財天はインドでは河の神で、弁舌(べんぜつ)・音楽・技芸上達の神です。
一般的に三面大黒天(三面の大黒)は正面が大黒天、右面が毘沙門天、左面が弁才天の三つの顔をもつ大黒天のことです。三面大黒天は仏・法・僧(ぶっぽうそう)の三宝(さんぼう)を守護するとも言われています。三面大黒天は天台宗(てんだいしゅう)の宗祖である伝教大師(でんぎょうだいし)・最澄(さいちょう)が比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)の台所の守護神として祀ったのが始まりとも言われています。ちなみに大黒天は密教(みっきょう)とともに中国から日本に伝わり、天台宗・真言宗を中心として信仰され、その後大国主神(おおくにぬしのかみ)と習合(しゅうごう)しました。
弘法大師・空海は奈良時代の774年(宝亀5年)に讃岐国多度郡屏風浦(香川県善通寺市)で父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)と母・阿刀大足(あとのおおたり)の妹の間に生まれました。789年(延暦8年)に15歳で母方の叔父・阿刀大足(あとのおおたり)のもとで論語・孝経・史伝などを学び、792年(延暦11年)に18歳で官僚育成機関である大学寮(だいがくりょう)に入って官吏としての学問を修めました。その後仏道を志して山林で修行し、三論宗(さんろんしゅう)の僧で、東大寺(とうだいじ)別当・勤操(ごんそう)のもとで南都仏教を学びました。804年(延暦23年)に遣唐使として唐(中国)に渡り、長安で青竜寺(せいりゅうじ)の恵果(えか)のもとで密教を学び、伝法阿闍梨位(でんぽうあじゃりい)の灌頂(かんじょう)を受け、遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられました。806年(大同元年)に帰国し、真言密教を日本に伝えて真言宗の開祖になりました。816年(弘仁7年)から高野山で金剛峯寺(こんごうぶじ)創建に着手し、823年(弘仁14年)に東寺を賜って真言密教の道場にしました。なお弘法大師・空海は835年(承和2年)3月21日に高野山で亡くなりました。
●東寺大黒堂は入母屋造(いりもやづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
東寺見どころ

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