東寺宝蔵・東寺見どころ(修学旅行)

東寺宝蔵

●東寺宝蔵は1925年(大正14年)4月24日に国の重要文化財に指定されました。
●東寺宝蔵は平安時代後期(1086年~1184年)に建立されました。東寺宝蔵は当初南北に2棟建立されていたが、南棟だけが残りました。東寺宝蔵は山内最古の建築物と言われています。なお東寺宝蔵にはかつて真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)が師で、真言八祖の第七祖とされる唐(中国)の密教僧・恵果(えか)から授かった密教法具・両界曼荼羅(りょうかいまんだら)・けん陀穀糸袈裟(けんだこくしのけさ)・仏舎利(ぶっしゃり)・五大尊(ごだいそん)などの寺宝が収蔵されていました。
弘法大師・空海は奈良時代の774年(宝亀5年)に讃岐国多度郡屏風浦(香川県善通寺市)で父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)と母・阿刀大足(あとのおおたり)の妹の間に生まれました。ただ誕生日は明確ではありません。真言宗(しんごんしゅう)では空海が唐の高僧で、三蔵法師(さんぞうほうし)の一人である不空三蔵(不空金剛・ふくうこんごう)の生まれ変わりと考えられていることから誕生日は不空三蔵の入滅の日である6月15日とされています。789年(延暦8年)に15歳で母方の叔父・阿刀大足(あとのおおたり)のもとで論語・孝経・史伝などを学び、792年(延暦11年)に18歳で官僚育成機関である大学寮(だいがくりょう)に入って官吏としての学問を修めました。その後仏道を志して山林で修行し、三論宗(さんろんしゅう)の僧で、東大寺(とうだいじ)別当・勤操(ごんそう)のもとで南都仏教を学びました。804年(延暦23年)に遣唐使として唐(中国)に渡り、長安で青竜寺(せいりゅうじ)の恵果(えか)のもとで密教を学び、伝法阿闍梨位(でんぽうあじゃりい)の灌頂(かんじょう)を受け、遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられました。806年(大同元年)に帰国し、真言密教を日本に伝えて真言宗の開祖になりました。816年(弘仁7年)から高野山で金剛峯寺(こんごうぶじ)創建に着手し、823年(弘仁14年)に東寺を賜って真言密教の道場にしました。なお弘法大師・空海は835年(承和2年)3月21日に高野山で亡くなりました。
恵果は746年(天宝5載)に昭応県(臨潼)に生まれました。不空金剛(ふくうこんごう)に師事して「金剛頂経(こんごうちょうぎょう)」系の密教、善無畏(ぜんむい)の弟子・玄超(げんちょう)から「大日経(だいにちきょう)」・「蘇悉地経(そしつじきょう)」系の密教を学びました。その後長安・青龍寺(せいりゅうじ)に住して東アジアから集まった弟子に法を授け、代宗・徳宗・順宗と3代に渡って皇帝に師と仰がれました。なお恵果は806年(永貞元年)に亡くなりました。
●東寺宝蔵は桁行三間・梁間三間で、本瓦葺(ほんがわらぶき)の校倉造(あぜくらづくり)です。東寺宝蔵では床板に金堂の扉とも、都城の正門・羅城門(らじょうもん)の扉とも言われる大きな建物の扉が転用されています。
校倉造は断面が三角形・台形の校木(あぜぎ)を井桁(いげた)に組んで積み上げて壁体とした建築様式です。校倉造では校木が晴雨に応じ膨張・収縮し、室内の湿度を一手に保って、物品の収納・保存に適しているとも言われています。校倉造は奈良時代から平安時代初期に寺院などの倉に用いられました。校倉造では正倉院(しょうそういん)の宝庫・東大寺(とうだいじ)の本坊経庫・唐招提寺(とうしょうだいじ)の宝蔵と経蔵などが知られています。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
東寺見どころ

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