東寺観智院・東寺見どころ

東寺観智院

●東寺観智院は鎌倉時代後期の1308年(延慶元年)に後宇多法皇(第91代・後宇多天皇)が御影堂(西院)に参籠した際、僧侶の住房として計画したのが起源とも言われています。南北朝時代の1359年(延文4年・正平14年)頃に杲宝(ごうほう)が創建しました。その後杲宝の弟子・賢宝(げんぽう)が本尊・五大虚空蔵菩薩を安置しました。江戸時代に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)の黒印状にあるように真言宗一宗の勧学院と言われました。なお杲宝・賢宝は東寺に伝わる数多くの文書類を編纂しました。杲宝・賢宝が集めた密教の聖教類は1万5千件以上にもなります。
杲宝は鎌倉時代後期の1306年(徳治元年)に下野国(栃木県)または但馬国(兵庫県)とも言われたとも言われています。幼い頃に出家して高野山に上り、17歳の時に東寺の塔頭・宝菩提院(ほうぼだいいん)の頼宝(らいほう)に真言密教学びました。その後槙尾山(まきおさん)の浄宝(じょうほう)から三宝院流(さんぼういんりゅう)の灌頂(かんじょう)を受け、南都(奈良)・高野山を遊学しました。1346年(貞和2年・正平元年)に勧修寺(かじゅうじ)慈尊院(じそんいん)の栄海(えいかい)に師事して伝法灌頂(でんぽうかんじょう)を受けました。1348年(貞和4年・正平3年)から東寺勧学会学頭(かんがくえがくとう)・法印(ほういん)・大僧正(だいそうず)を歴任しました。また1359年(延文4年・正平14年)頃に観智院を創建し、真言教学の研究に専念し、高野山の宥快(ゆうかい)とともに真言教学の中興の祖と称されています。また師・頼宝と弟子・賢宝とともに東寺三宝とも称されています。杲宝は「東宝記(とうぼうき)」を著し、東寺の歴史を明白にし、真言宗の宗祖である弘法大師・空海の真髄を得たと評されました。なお杲宝は1362年(康安2年・正平17年)に亡くなりました。
賢宝は南北朝時代の1333年(正慶2年・元弘3年)に生まれました。東寺の杲宝(ごうほう)のもとで出家して密教を学び、1359年(延文4年・正平14年)に灌頂(かんじょう)を受けました。1389年(康応元年・元中6年)に法印権大僧都(ほういんごんのだいそうず)になりました。賢宝は杲宝とその師・頼宝が未完のまま残した密教哲学を研究し、生涯を掛けて完成させ、政治の醍醐寺に対し、教学の東寺とも称されました。賢宝は杲宝・頼宝とともに東寺三宝とも称されています。43年間を費やした「大日経疏演奥鈔」を完成させました。なお杲宝は1398年(応永5年)に亡くなりました。
第91代・後宇多天皇は鎌倉時代の1267年(文永4年)12月17日に第90代・亀山天皇と左大臣・洞院実雄(とういんさねお)の娘・洞院佶子(とういんきつし)の第2皇子として生まれました。1268年(文永5年)に祖父・後嵯峨上皇(第88代・後嵯峨天皇)の意志によって8か月で立太子し、1274年(文永11年)に8歳で第90代・亀山天皇から譲位されて第91代・後宇多天皇になり、父・亀山上皇が院政を行いました。1275年(建治元年)に持明院統(じみょういんとう・北朝)の後深草上皇(第89代・後深草天皇)が大覚寺統(だいかくじとう・南朝)の天皇が続くことを不満を持ち、鎌倉幕府に働き掛けて後深草上皇の第2皇子・熈仁親王(第92代・伏見天皇)が皇太子になり、1286年(弘安9年)に第1皇子・邦治親王(第94代・後二条天皇)が親王宣下を受けたが、1287年(弘安10年)に21歳で皇太子・熈仁親王(第92代・伏見天皇)に譲位しました。鎌倉幕府は後持明院統と大覚寺統による両統迭立案を提案しました。1307年(徳治2年)に後深草上皇の皇女で、寵妃の遊義門院(れい子内親王)が亡くなると仁和寺(にんなじ)で落飾して金剛性と称し、大覚寺に入寺して御所とし、大覚寺門跡になりました。なお第91代・後宇多天皇は1324年(元亨4年)7月16日に崩御しました。
東寺見どころ

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