東寺金堂・東寺見どころ

東寺金堂

●東寺金堂は1897年(明治30年)12月28日に国の重要文化財、1953年(昭和28年)3月31日に国宝に指定されました。
●東寺金堂は796年(延暦15年)の東寺創建時から建立が始まり、823年(弘仁14年)頃に完成しました。しかし室町時代後期の1486年(文明18年)の土一揆によって焼失し、江戸時代初期の1603年(慶長8年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の子・豊臣秀頼(とよとみひでより)の寄進によって再建されました。
豊臣秀頼は安土桃山時代の1593年(文禄2年)8月29日に関白・豊臣秀吉と側室・淀殿(よどどの・浅井茶々(あざいちゃちゃ))の間の第2子として大坂城で生まれました。豊臣秀頼は豊臣秀吉57歳の時の子で、健康な成長を願って、一旦捨てた形にして家臣・松浦重政(まつうらしげまさ)が拾い上げました。豊臣秀頼は幼名は拾丸(ひろいまる)で、乳母は宮内卿局(くないきょうのつぼね)・右京大夫局(うきょうのだいぶのつぼね)・正栄尼(しょうえいに)でした。豊臣秀吉は豊臣秀頼誕生直後に関白・豊臣秀次(とよとみひでつぐ)の娘と婚約させようとしたが、1595年(文禄4年)に豊臣秀次の関白職を奪って自刃させ、豊臣秀頼の継嗣としての地位を確定させました。豊臣秀頼は豊臣秀吉とともに伏見城に住んでいたが、1598年(慶長3年)8月に豊臣秀吉が死去すると豊臣秀頼は家督を継ぎ、豊臣秀吉の遺命によって大坂城に移り住みました。豊臣秀頼は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後に摂津・河内・和泉を知行する一大名になったが、1603年(慶長8年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)の孫、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)の子・千姫(せんひめ)と結婚しました。しかし1614年(慶長19年)の方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)によって大坂の陣が勃発し、1615年(慶長20年)6月4日に秀頼は淀殿らとともに自害しました。なお豊臣秀頼は多くの神社仏閣に寄進したり、再建などに尽力したりしています。
一般的に金堂は本堂で、本尊仏を安置する仏堂です。本堂は金堂・根本中堂(中堂)・仏殿などとも言われています。飛鳥時代から平安時代前半に創建された寺院では金堂と言われ、禅宗では仏殿と言われるとこが多いそうです。
●東寺金堂は奈良・東大寺(とうだいじ)の大仏様(だいぶつよう)を受け継ぎ、和様(わよう)も取り入れています。なお東寺金堂は本瓦葺の入母屋造です。
大仏様は鎌倉時代初期に俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)が東大寺の大仏殿を再建する際に中国・宋(南宋)から取り入れた建築様式です。大仏様は南宋系の建築様式で、禅宗様(ぜんしゅうよう)は北宋系の建築様式です。大仏様は柱に肘木をさし込む指肘木(さしひじき)、天井を張らない化粧屋根(けしょうやね)、用木に彩色を施すのが特徴です。なお大仏様はかつて天竺様(てんじゅくよう)とも言われていました。
和様は鎌倉時代に中国・宋から伝わった建築様式(大仏様・禅宗様)に対して、それ以前に日本の寺院建築に用いられてきた建築様式です。ただ和様のもとになった建築様式も仏教などとともに中国から伝わっています。和様は飛鳥時代・奈良時代に中国から伝えられ、平安時代に日本で発展しました。和様には柱が太く、天井を低い・床を張り、縁側を造る・蟇股(かえるまた)や間斗束(けんとづか)という部材を置くなどの特徴があります。なお鎌倉時代末期頃には和様・大仏様・禅宗様を折衷した折衷様(せっちゅうよう)も生まれました。
東寺見どころ

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