東寺南大門・東寺見どころ(修学旅行)

東寺南大門

●東寺南大門は1910年(明治43年)8月29日に国の重要文化財に指定されました。
●東寺南大門は1486年(文明18年)の土一揆で焼失しました。明治時代の京都国立博物館の建設により、1868年(明治元年)に焼失した南大門に代わりに三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)の西大門が移されてきました。なお三十三間堂の西大門は江戸時代初期の1601年(慶長6年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の子・豊臣秀頼(とよとみひでより)が建立しました。
豊臣秀頼は安土桃山時代の1593年(文禄2年)8月29日に関白・豊臣秀吉と側室・淀殿(よどどの・浅井茶々(あざいちゃちゃ))の間の第2子として大坂城で生まれました。豊臣秀頼は豊臣秀吉57歳の時の子で、健康な成長を願って、一旦捨てた形にして家臣・松浦重政(まつうらしげまさ)が拾い上げました。豊臣秀頼は幼名は拾丸(ひろいまる)で、乳母は宮内卿局(くないきょうのつぼね)・右京大夫局(うきょうのだいぶのつぼね)・正栄尼(しょうえいに)でした。豊臣秀吉は豊臣秀頼誕生直後に関白・豊臣秀次(とよとみひでつぐ)の娘と婚約させようとしたが、1595年(文禄4年)に豊臣秀次の関白職を奪って自刃させ、豊臣秀頼の継嗣としての地位を確定させました。豊臣秀頼は豊臣秀吉とともに伏見城に住んでいたが、1598年(慶長3年)8月に豊臣秀吉が死去すると豊臣秀頼は家督を継ぎ、豊臣秀吉の遺命によって大坂城に移り住みました。豊臣秀頼は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後に摂津・河内・和泉を知行する一大名になったが、1603年(慶長8年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)の孫、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)の子・千姫(せんひめ)と結婚しました。しかし1614年(慶長19年)の方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)によって大坂の陣が勃発し、1615年(慶長20年)6月4日に秀頼は淀殿らとともに自害しました。なお豊臣秀頼は多くの神社仏閣に寄進したり、再建などに尽力したりしています。
一般的に南大門は寺院などで南に面した正門で、中心的な建物に通じる門です。中国では都城や寺院などの建物が南側に面して建てられていることに由来しています。南大門は北・東・西の門よりも大きくなっています。
三十三間堂は平安時代後期の1165年(長寛2年)に後白河上皇(第77代・後白河天皇)が平清盛(たいらのきよもり)に資材協力を命じ、離宮・法住寺殿(ほうじゅうじどの)の一画に建立したのが起源です。その後鎌倉時代の1249年(建長元年)に焼失し、1266年(文永3年)に後嵯峨上皇(第88代・後嵯峨天皇)が再建しました。
京都国立博物館は1888年(明治21年)に行われた文化財調査により、奈良とともに方広寺(ほうこうじ)の旧境内である東山七条に建設することが決定されました。京都国立博物館は当初3階建てが計画されていたが、1891年(明治24年)に発生した濃尾地震の影響から平屋建てに変更されました。京都国立博物館は1892年(明治25年)6月から工事が開始され、1895年(明治28年)10月に竣工し、1897年(明治30年)5月に開館しました。その後1924年(大正13年)に京都市に移管されたが、1947年(昭和22年)に再び国に戻され、名称も京都国立博物館になりました。
東寺見どころ

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