東寺蓮花門・東寺見どころ(修学旅行)

東寺蓮花門

●東寺蓮花門は1902年(明治35年)4月17日に国の重要文化財、1952年(昭和27年)11月22日に国宝に指定されました。
●東寺蓮花門は鎌倉時代初期の1191年(建久2年)に北面の武士だった文覚上人(もんがくしょうにん・遠藤盛遠(えんどうもりとお))が再建しました。蓮花門は山内最古の門で、宝蔵に次いで古い伽藍と言われています。
文覚上人は平安時代後期の1139年(保延5年)に摂津源氏傘下の武士団・渡辺党に属する左近将監(さこんしょうげん)・遠藤茂遠(えんどうもちとお)の子・遠藤盛遠(えんどうもりとお)として生まれました。第74代・鳥羽天皇の皇女・統子内親王(上西門院)に北面武士として仕えていました。しかし同僚の渡辺左衛門尉源渡(わたなべさえもんのじょうみなもとのわたる)の妻・袈裟(けさ)に横恋慕し、夫の身代わりとなった袈裟を殺したことから19歳で出家しました。その後諸国を行脚して修行し、1168年(仁安3年)に崇敬する真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)の旧跡である神護寺(じんごじ)に住して再興に努めました。しかし神護寺再興を第77代・後白河天皇に強訴したことから伊豆国に配流されました。伊豆国では鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(みなもとのよりとも)と知遇を得て挙兵を助け、鎌倉幕府の開府後に源頼朝の庇護を受けて神護寺を再興しました。また東寺(とうじ)・高野山(こうやさん)・東大寺(とうだいじ)などの建物も修復しました。源頼朝の死後に三左衛門事件(さんさえもんじけん)に連座して佐渡国に配流され、後鳥羽上皇(第82代・後鳥羽天皇)に謀反の疑いを掛けられ、1203年(建仁3年)8月29日に対馬国に配流される途中の鎮西(ちんぜい)で亡くなりました。
●東寺蓮花門には真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)が高野山に向かう際、大師堂(御影堂・不動堂)の不動明王(不動明王坐像)が蓮花門で見送ったという伝承が残っています。不動明王の足下や歩んできた跡に蓮花が咲いたとも言われ、蓮花門の名称の由来になっています。
不動明王坐像(国宝)は9世紀に造仏されたと言われています。不動明王坐像は弘法大師・空海の念持仏(ねんじぶつ)とされています。なお不動明王坐像は絶対的秘仏で非公開だが、日本最古の不動明王像の一つとされています。
不動明王は真言密教の教主・大日如来(だいにちにょらい)の化身とも言われています。大日如来が衆生を教化する際、通常の姿では教化できないので、忿怒相(ふんぬそう)をもって現れたとされています。不動明王は背に火炎を背負い、右手に悪を断ち切る剣、左手に救済の索を持ち、全ての悪と煩悩を抑え、全ての生あるものを救うと言われています。不動明王は五大明王(降三世明王・軍荼利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王)のひとつです。なお不動明王はサンスクリット語のアカラ(阿遮羅) を漢訳したものです。なお大日如来は平安時代前期に弘法大師・空海が密教とともに唐から日本に伝えました。
東寺見どころ

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