東寺小子房・東寺見どころ(修学旅行)

東寺小子房

●東寺小子房は1934年(昭和9年)の真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)の千百年御遠忌(ごおんき)に再建されました。東寺小子房は天皇を迎えする特別な場所です。かつて南北朝時代に室町幕府初代将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)が光厳上皇(北朝初代・光厳天皇)奉じて京都に入った際、洛中での戦いが治まるまでの間、東寺小子房は光厳上皇の御所になりました。
弘法大師・空海は奈良時代の774年(宝亀5年)に讃岐国多度郡屏風浦(香川県善通寺市)で父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)と母・阿刀大足(あとのおおたり)の妹の間に生まれました。ただ誕生日は明確ではありません。真言宗(しんごんしゅう)では空海が唐の高僧で、三蔵法師(さんぞうほうし)の一人である不空三蔵(不空金剛・ふくうこんごう)の生まれ変わりと考えられていることから誕生日は不空三蔵の入滅の日である6月15日とされています。789年(延暦8年)に15歳で母方の叔父・阿刀大足(あとのおおたり)のもとで論語・孝経・史伝などを学び、792年(延暦11年)に18歳で官僚育成機関である大学寮(だいがくりょう)に入って官吏としての学問を修めました。その後仏道を志して山林で修行し、三論宗(さんろんしゅう)の僧で、東大寺(とうだいじ)別当・勤操(ごんそう)のもとで南都仏教を学びました。804年(延暦23年)に遣唐使として唐(中国)に渡り、長安で青竜寺(せいりゅうじ)の恵果(えか)のもとで密教を学び、伝法阿闍梨位(でんぽうあじゃりい)の灌頂(かんじょう)を受け、遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられました。806年(大同元年)に帰国し、真言密教を日本に伝えて真言宗の開祖になりました。816年(弘仁7年)から高野山で金剛峯寺(こんごうぶじ)創建に着手し、823年(弘仁14年)に東寺を賜って真言密教の道場にしました。なお弘法大師・空海は835年(承和2年)3月21日に高野山で亡くなりました。
●東寺小子房は総木曾檜造で、勅使の間・牡丹の間・瓜の間・枇杷の間・鷲の間・雛鶏の間の6室があります。襖絵や壁画は堂本印象(どうもといんしょう)が描きました。勅使の間には金色の地に極彩色で描かれた「渓流に鶴」・「日輪山嶽図(にちりんさんがくず)」があります。なお庭園には7代目小川治兵衛(おがわじへえ)が作庭した澄心苑(ちょうしんえん)があります。
堂本印象は1891年(明治24年)12月25日に京都市で生まれました。1910年(明治43年)に京都市立美術工芸学校を卒業すると西陣織の図案を描いていたが、日本画家を志して京都市立絵画専門学校(京都市立芸術大学)に入学しました。1919年(大正8年)に帝展初出展の「深草」が入選し、帝展第3回展で「調鞠図」が特選になり、帝展第6回展で「華厳」が帝国美術院賞を受賞し、日本画家として認められました。1936年(昭和11年)に京都市立絵画専門学校の教授に就任し、1944年(昭和19年)に帝室技芸員になり、1950年(昭和25年)に日本芸術院の会員になり、1961年(昭和36年)に文化勲章を受賞しました。堂本印象は「訶梨帝母」・「木華開耶媛」・「水郷欲雨」などを描きました。堂本印象は伝統画派を研究し、戦後に伝統的画風を捨て、斬新な洋画的新画風を生み出しました。なお堂本印象は1975年(昭和50年)9月5日に亡くなりました。
7代目小川治兵衛は1860年(万延元年)5月25日に山城国乙訓郡神足村(京都府長岡京市)に生まれました。1877年(明治10年)に江戸時代中期の宝暦年間(1751年~1764年)から続く植木屋治兵衛・小川植治の養子になり、1879年(明治12年)に七代目小川治兵衛を襲名しました。明治時代初期に京都東山・南禅寺界隈の別荘地で、東山を借景に琵琶湖疏水を利用した近代的日本庭園群(南禅寺界隈疏水園池群)を作庭しました。なお7代目小川治兵衛はいずれも国の名勝に指定されている平安神宮・円山公園・無鄰庵(山縣有朋別邸)・清風荘(西園寺公望別邸)・対龍山荘(市田弥一郎邸)・慶雲館庭園・旧古河庭園などを作庭しました。また京都御苑・京都御所・修学院離宮・桂離宮・二条城・清水寺・南禅寺・妙心寺・法然院・青蓮院・仁和寺などの庭園などを作庭・修景もしました。
東寺見どころ

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