東寺八島殿・東寺見どころ(修学旅行)

東寺八島殿

●東寺八島殿(八島社)は五重塔(国宝)西側で、南大門(重要文化財)を入った右側に建立されています。八島殿は平安時代前期の東寺創建以前から祀られていたとも言われています。平安時代前期に真言宗の宗祖である弘法大師・空海はこの神の夢想を被って、東寺の伽藍建立に先立ち、寺門造立成就・方位安全・法道繁盛の祈願し、地主神(じぬしのかみ)と崇めったとも言われています。1868年(明治元年)に焼失し、その後再建されました。なお八島殿の祭神は地主神とも、大己貴神(おおなむちのかみ)とも言われています。八島殿の社号はわが国を大八洲瑞穂国(おおやしまみづほのくに)と言うことに由来しています。
地主神は土地に土着し、その土地を守護する神です。土地ごとにそれを守護する地主神がいるとされています。ちなみに土地ではなく、屋敷を過ごする場合もあります。なお地主神は小さな祠などに祀られています。
大己貴神は大国主命 (おおくにぬしのみこと) のことです。大国主命は日本最古の歴史書「古事記(こじき)」・日本最古の正史「日本書紀(にほんしょき)」によると須佐之男命(すさのおのみこと)の六世の孫で、日本国を創った神とされています。また出雲国造(いずものくにのみやつこ)の祖神、出雲大社(いずもたいしゃ)の祭神ともされています。
弘法大師・空海は奈良時代の774年(宝亀5年)に讃岐国多度郡屏風浦(香川県善通寺市)で父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)と母・阿刀大足(あとのおおたり)の妹の間に生まれました。789年(延暦8年)に15歳で母方の叔父・阿刀大足(あとのおおたり)のもとで論語・孝経・史伝などを学び、792年(延暦11年)に18歳で官僚育成機関である大学寮(だいがくりょう)に入って官吏としての学問を修めました。その後仏道を志して山林で修行し、三論宗(さんろんしゅう)の僧で、東大寺(とうだいじ)別当・勤操(ごんそう)のもとで南都仏教を学びました。804年(延暦23年)に遣唐使(けんとうし)として唐(中国)に渡り、長安で青竜寺(せいりゅうじ)の恵果(えか)のもとで密教を学び、伝法阿闍梨位(でんぽうあじゃりい)の灌頂(かんじょう)を受け、遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられました。806年(大同元年)に帰国し、真言密教を日本に伝えて真言宗の開祖になりました。816年(弘仁7年)から高野山で金剛峯寺(こんごうぶじ)創建に着手し、823年(弘仁14年)に東寺を賜って真言密教の道場にしました。なお弘法大師・空海は835年(承和2年)3月21日に高野山で亡くなりました。
●東寺八島殿は一間社流造(いっけんしゃながれづくり)の銅板葺(どうばんぶき)です。八島殿は社殿前に唐破風(からはふ)の拝所が設けられています。
流造は神社建築の一形式です。流造は正面入口にあたる屋根の一方(前流れ)が長く延びた形式です。流造は伊勢神宮(いせじんぐう)に代表される神明造(しんめいづくり)から発展し、奈良時代末期から平安時代に成立し、全国に広がりました。流造では上賀茂神社(かみがもじんじゃ)・下鴨神社(しもがもじんじゃ)がよく知られています。流造では正面(桁行)の柱間が1間(柱2本)の場合には一間社流造、3間(柱4本)の場合には三間社流造、5間(柱6本)の場合には五間社流造になります。
銅板葺は銅を薄くした銅板で屋根を葺く方法です。銅板葺は近世に本格的に始まり、神社・霊廟などに多く用いられています。銅板葺は瓦葺に比べると自重が軽くて耐震性があり、檜皮葺・こけら葺に比べると耐久性があるとい言われています。なお765年(天平宝字9年・天平神護元年)に奈良・西大寺(さいだいじ)で銅板葺が用いられたのが最古の記録とも言われています。
東寺見どころ

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