豊国神社歴史-修学旅行・観光ポイント
豊国神社の時代別年表と重要人物
豊国神社歴史を簡単にマトメてポイント解説します。豊国神社は1598年(慶長3年)に亡くなり、火葬されることなく、伏見城内に安置されていた豊臣秀吉の遺体が遺命により、阿弥陀ヶ峰に葬られ、その麓に廟所が建立されたのが起源です。なお豊国神社歴史では時代別に歴史年表にまとめ、重要人物も紹介したりしています。
【前史(阿弥陀ヶ峰)】
★豊国廟(ほうこくびょう)が建立されている阿弥陀ヶ峰(あみだがみね・豊国山)は標高約196メートルので、東山三十六峰に数えられています。阿弥陀ヶ峰は奈良時代(710年~794年)に僧・行基菩薩(ぎょうきぼさつ)が阿弥陀如来(あみだにょらい)を安置したことに由来し、古くは葬送の地とされていました。なお現在、豊国廟は山麓から563段の石段を登ったところに石造五輪塔が建立されています。
【豊国神社創建(起源・由来)】
★豊国神社は1598年(慶長3年)8月18日に亡くなり、火葬されることなく、伏見城(ふしみじょう)内に安置されていた関白・豊臣秀吉の遺体がその遺命により、翌1599年(慶長4年)4月13日に豊臣秀吉が創建した方広寺(ほうこうじ)東側の阿弥陀ヶ峰の山頂に葬られ、その山麓に高野山の僧で、方広寺開山・木食応其(もくじきおうご)が廟所を建立したのが起源です。廟所は豊臣秀吉の死後直後から着工されたが、豊臣秀吉の死は伏せられていたことから方広寺大仏の鎮守社と称していました。豊臣秀吉は東大寺の大仏殿を守護する手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)に倣い、自身を「新八幡」として祀るように遺言したと言われています。ちなみに手向山八幡宮は東大寺の大仏造立の際、749年(天平勝宝元年)に大分・宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)から勧請され、東大寺の守護神として祀られ、手向山八幡宮は宇佐八幡宮の分社では第一号とされ、鎮守八幡宮とも言われていたそうです。その後豊臣秀吉の死が明らかになると鎮守社は「新八幡社」言われるようになりました。なお鎮守社は北野天満宮(きたのたんまんぐう)に倣って、八棟造りだったと言われています。
【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】
★1599年(慶長4年)4月16日に豊臣秀吉の望みとは相違し、朝廷から豊国大明神(とよくにのだいみょうじん)の神号が与えられ、4月18日に遷宮の儀が行われて豊国神社と命名され、4月19日に第107代・後陽成天皇(ごようぜいてんのう)から神階・正一位(しょういちい)が与えられました。神事は吉田神道の吉田家が主宰し、吉田家当主・吉田兼見が取り仕切り、豊国神社の社務職は吉田兼見の孫で、養子・萩原兼従が就任し、吉田兼見の弟・神龍院梵舜が神宮寺の社僧になりました。なお豊臣秀吉の子・豊臣秀頼は豊国神社創建の際に参列しなかったが、その希望により、豊国神社は大坂城内にも分祀されました。また豊臣秀頼は社領4万石を寄進したと言われています。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
★1601年(慶長6年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)が豊国神社に社領1万石を寄進したと言われています。
★1604年(慶長9年)に行われた豊国祭が「豊国祭礼図屏風」に描かれています。なお豊国神社では毎年4月と命日の8月18日は豊国祭と言われる盛大な祭りが行われていました。
★1605年(慶長10年)に豊臣秀吉の正室・北政所(きたのまんどころ)が阿弥陀ヶ峰に向かって、高台寺(こうだいじ)内に霊屋を建立しました。霊屋には豊臣秀吉の念持仏(ねんじぶつ)・守り本尊と言われる大随求菩薩(だいずいぐぼさつ)像・豊臣秀吉の坐像・北政所の木像が安置され、北政所の木像の地下約2メートルには北政所の遺骸(いがい)が葬られていると言われています。
★1611年(慶長16年)に豊臣秀頼が徳川家康と二条城の二の丸御殿で会見した際、最初で最後となる豊国神社を参拝しました。
★1614年(慶長19年)に方広寺の梵鐘の銘文「国家安康」・「君臣豊楽」を巡って、徳川家康の「家」と「康」を分断し、豊臣を「君主」とするものとして、方広寺鐘銘事件が起こり、同年に大坂冬の陣が起こり、1615年(元和元年)に一旦和議が成立したが、その後大坂夏の陣が起り、大坂城が落城して豊臣秀頼とその生母・淀殿が自刃して豊臣家が滅亡しました。徳川家康は第108代・後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の勅許を得て、豊臣秀吉の神号「豊国大明神」を剥奪して、豊国神社を取り壊し、豊臣秀吉の霊が「国泰院俊山雲龍大居士」として、方広寺大仏殿後方に建立された五輪塔に移されました。ちなみに琵琶湖に浮かぶ竹生島に祀られている都久夫須麻神社の本殿は豊国神社の社殿を移築したものとも言われています。なお北政所の願いにより、豊国神社の社殿は残されたが、修理をすることが禁止され、荒廃していったと言われています。
★1616年(元和2年)に徳川家康が亡くなり、1619年(元和5年)に神宮寺が妙法院(みょうほういん)に移されたとも言われています。
★1640年(寛永17年)に妙法院が豊国神社の参道内に新日吉神社(いまひえじんじゃ)を再興し、豊国神社への参拝路を塞いだとも言われています。
★1662年(寛文2年)に寛文近江・若狭地震が起こったが、豊国神社周辺は被害がなかったこともあり、地震除けの流行神として参詣者が集まったそうです。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
★1868年(明治元年)に第122代・明治天皇(めいじてんのう)が「天下を統一しながら幕府を開かなかったのは尊皇の功臣である」と豊臣秀吉を称え、豊国神社再興を命じました。
★1873年(明治6年)に別格官幣社に列しました。
★1880年(明治13年)に豊国神社の社殿が方広寺大仏殿跡に再建されました。黒田長成侯爵・蜂須賀茂韶侯爵らが中心となり、境内の整備が行われました。ちなみに萩原兼従の子孫である萩原員光が宮司に任命されました。豊国神社再興時に南禅寺(なんぜんじ)の塔頭(たっちゅう)・金地院(こんちいん)から唐門が移築されました。ちなみに唐門は元々、伏見城(ふしみじょう)に建てられ、その後二条城(にじょうじょう)に移築され、1627年(寛永4年)に以心崇伝(いしんすうでん・金地院崇伝(こんちいんすうでん))が江戸幕府から譲り受け、二条城から金地院に移築したと言われています。
★1897年(明治30年)に阿弥陀ヶ峰の山頂に伊東忠太(いとうちゅうた)の設計により、巨大な石造五輪塔が建立され、翌1898年(明治31年)に豊太閤三百年祭が大々的に挙行されました。
★1925年(大正14年)に宝物館が開館しました。
★1927年(昭和2年)に北政所を祀る摂社・貞照神社が創建されました。
【豊臣秀吉:豊国神社主祭神】
豊臣秀吉は1537年(天文6年)に織田信長の足軽(百姓)・木下弥右衛門と美濃の鍛冶・関兼貞の娘・なか(天瑞院)の間に生まれました。尾張国愛知郡中村郷中中村(名古屋市中村区)で生まれたとも言われています。先ず今川氏の家来で、引馬城の支城・頭陀寺城城主・松下之綱に仕え、1554年(天文23年)頃から織田信長に仕えました。1561年(永禄4年)に浅野長勝の養女・北政所(ねね)と恋愛結婚しました。その後数々の戦功を重ねて頭角を現し、1573年(天正元年)に浅井氏が滅亡すると長浜城城主になりました。1582年(天正10年)に明智光秀が織田信長に謀反を起こした本能寺の変後、山崎の戦いで明智光秀を破り、京都の支配権を掌握しました。1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破りました。その後四国・九州・関東・奥羽を平定し、1590年(天正18年)に天下を統一を成し遂げました。ちなみに1585年(天正13年)に関白、翌1586年(天正14年)に豊臣姓を賜って、太政大臣になりました。その後唐入りを目指し、1592年(天正20年)から文禄・慶長の役が始まりました。なお豊臣秀吉は1598年(慶長3年)に伏見城内で亡くなりました。
【豊国神社歴史-修学旅行・観光ガイド 備考】
*参考・・・豊国神社