祇園祭と「洛中洛外図屏風(上杉本)」
祇園祭と「洛中洛外図屏風(上杉本)」
祇園祭は絵師・狩野永徳が23歳頃に描き、1574年(天正2年)に織田信長が上杉謙信に贈った「洛中洛外図屏風(上杉本)」に描かれています。右隻には長刀鉾・蟷螂山・鶏鉾・岩戸山など山鉾や清水寺などの東山の名所が描かれています。
【祇園祭2025 日程】
祇園祭2025は2025年7月1日(火曜日)の吉符入(きっぷいり)から2025年7月31日(木曜日)の疫神社(えきじんじゃ)の夏越祭(なごしさい)までの7月1ヶ月に渡って行われます。
祇園祭2025日程一覧(宵山屋台・山鉾巡行・・・)
【祇園祭 歴史・簡単概要】
祇園祭(ぎおんまつり)は平安時代前期の869年(貞観11年)に全国に疫病が流行し、牛頭天王(ごずてんのう)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)の祟りであるとし、卜部日良麿(うらべのひらまろ)が神泉苑(しんせんえん)に国の数と同じ66本の鉾を立て、悪霊を移して穢れを祓い、薬師如来(やくしにょらい)の化身とされる牛頭天王を祀り、更に牛頭天王を主祭神とする八坂神社から3基の神輿を送り、病魔退散(びょうまたいさん)を祈願した祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が起源と言われています。970年(天禄元年)から毎年に行われるようになりました。
祇園祭歴史年表・由来(869年~)
【祇園祭と「洛中洛外図屏風(上杉本)」】
祇園祭は絵師・狩野永徳(かのうえいとく)が23歳頃に描き、戦国時代(室町時代後期)の1574年(天正2年)に織田信長(おだのぶなが)が上杉謙信(うえすぎけんしん)に贈った「洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)(上杉本)」に描かれています。「洛中洛外図屏風(上杉本)」は元々、室町幕府13代将軍・足利義輝(あしかがよしてる)が狩野永徳に注文したが、完成前の1565年(永禄8年)に足利義輝が永禄の変で亡くなり、その後完成したとも言われています。ちなみに織田信長は1568年(永禄11年)に室町幕府15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)を擁して上洛し、1573年(元亀4年・天正元年)に足利義昭を河内に追放し、朝倉氏・浅井氏も滅ぼしました。1574年(天正2年)1月に織田領になった越前国で、地侍や本願寺門徒による越前一向一揆が起こったり、武田信玄(たけだしんげん)の子・武田勝頼(たけだかつより)が東美濃に侵攻して明知城が落城したりしました。織田信長が上杉謙信に「洛中洛外図屏風(上杉本)」を贈った意味には当時の情勢が影響しているのかもしれません。なお織田信長は1582年(天正6年)6月14日に祇園祭を見物しました。
「洛中洛外図屏風(上杉本)」は右隻(下京隻)・左隻(上京隻)に分かれ、各隻が高さ約160センチ・幅約365センチです。「洛中洛外図屏風(上杉本)」は屏風を覆い尽くすような金雲の合間に神社仏閣などの名所や家々などが描かれています。また様々な身分や職種の貴賎僧俗・公武衆庶など合計2,485人も描かれています。右隻は西側から鴨川や東山方面を眺望し、左端に御所が描かれ、祇園祭の長刀鉾(なぎなたほこ)・蟷螂山(とうろうやま)・鶏鉾(にわとりほこ)・岩戸山(いわとやま)など山鉾や清水寺などの東山の名所が描かれています。左隻は東側から北山・西山方面を眺望し、花の御所・公方邸・相国寺・嵯峨野・高尾・栂尾(とがのお)・北山などが描かれています。「洛中洛外図屏風(上杉本)」は山形県米沢市の上杉博物館に収蔵され、1995年(平成7年)に国宝に指定されました。ちなみに「洛中洛外図屏風」には上杉本以外にも現存する「洛中洛外図屏風」の中で最古とも言われる歴博甲本・歴博乙本・舟木本などがあります。なお「洛中洛外図屏風」は描かれた当時の風俗などを知る資料になっています。
【狩野永徳 祇園祭】
狩野永徳は1543年(天文12年)2月16日に狩野松栄の長男として京都で生れました。狩野元信の孫にあたり、祖父・父から絵を学び、早くから画才を発揮しました。1552年(天文21年)に祖父とともに室町幕府13代将軍・足利義輝に謁見したとも言われています。1566年(永禄9年)に父とともに大徳寺の塔頭・聚光院の障壁画を描き、最も重要な場所である室中(仏間)を父に代わって担当しました。1567年(永禄10年)~1568年(永禄11年)に近衛前久(このえさきひさ)邸の障壁画を描き、1571年(元亀2年)に大友宗麟に招かれ、久我晴通らとともに豊後国に下向し、臼杵丹生島城の障壁画を描きました。その後織田信長に認められ、1576年(天正4年)~1579年(天正7年)に安土城の障壁画を描きました。「信長公記」によるとあらゆる画題にあらゆる技法を駆使して描いたと言われています。本能寺の変後に関白・豊臣秀吉に重用され、1583年(天正11年)に大坂城の障壁画を描き、1586年(天正14年)に聚楽第の障壁画を描きました。1589年(天正17年)に第107代・後陽成天皇の内裏の障壁画を描き、1590年(天正18年)に八条宮家の障壁画を描きました。1590年(天正18年)9月から東福寺法堂の天井画を描くが、その最中に病気になり、同年10月12日に亡くなりました。東福寺法堂の天井画は弟子・狩野山楽が完成させました。狩野永徳は豪快な金地極彩色の画風を創造し、狩野派全盛の基礎を築きました。代表作には1574年(天正2年)に織田信長が上杉謙信に贈った「洛中洛外図屏風(上杉本)」・宮内庁の「唐獅子図屏風」・東京国立博物館の「檜図屏風」などがあります。
【祇園祭と「洛中洛外図屏風(上杉本)」 備考】
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祇園祭2025日程(ちまき販売・宵山屋台・・・)