八坂神社本殿七不思議・八坂神社見どころ(修学旅行・観光)

八坂神社本殿七不思議

●八坂神社本殿七不思議には龍穴(りゅうけつ)・龍吼(りゅうぼえ)があります。龍穴は本殿の下に龍が棲むほど底知れぬくらい深い井戸があり、龍穴は神泉苑(しんせんえん)・東寺(とうじ)に繋がっているとも、「日本書紀」の注釈書である「釈日本紀(しゃくにほんぎ)・鎌倉時代末期編纂」によると竜宮に通じているとも言われています。本殿は青龍が棲む龍穴がある底なし池の上に建てられているとも言われています。龍吼は本殿の玄関の東の柱から西に向かって柏手を打つと音が大きく反響すると言われています。ちなみに東の柱と屋根の庇の接点部分には龍が描かれ、龍が柏手に応えて鳴いているとも言われています。
本殿は1646年(正保3年)に焼失し、1654年(承応3年)に江戸幕府第4代将軍・徳川家綱が再建しました。本殿は御所・紫宸殿を模し、本殿と拝殿がひとつになった独特の祇園造・八坂造です。本殿は桁行7間・梁間6間で、高さ約15メートルです。日本最大級の神社神殿とも言われています。本殿は中御座に素戔嗚尊、東御座に櫛稲田姫命と神大市比売命・佐美良比売命、西御座に素戔嗚尊の8人の子供と稲田宮主須賀之八耳神を祀っています。
徳川家綱は1641年(寛永18年)9月7日に江戸幕府第3代将軍・徳川家光と側室・お楽の方の間に生まれました。幼名は竹千代で、生まれた時から家光によって後継ぎに決められました。1645年(正保2年)に元服し、1651年(慶安4年)4月20日に徳川家光が亡くなると8月18日に10才で江戸城で将軍宣下を受け、江戸幕府第4代将軍に就任しました。幼少将軍であったことから叔父・保科正之や徳川家光の遺老である酒井忠勝・松平信綱らに補佐され、治世29年間で幕府諸制度を整備しました。家綱は質素倹約を重んじ、武芸学問を奨励し、武断政治から文治政治に政策を切り替えました。なお徳川家綱は1680年(延宝8年)6月4日に亡くなりました。
神泉苑は794年(延暦13年)の平安京遷都の際、大内裏の南に接する場所に造営された八町の規模を有する禁苑(宮中の庭)でした。禁苑は大池・泉・小川・小山・森林などを取り込んで造られ、主殿の乾臨閣・右閣・左閣・西釣台・東釣台などの宮殿が造営されました。800年(延暦19年)に桓武天皇が行幸し、802年(延暦21年)に雅宴が催されたとも言われています。812年(弘仁3年)に嵯峨天皇が花宴の節を催したとも言われています。その後824年(天長元年)に真言宗の開祖である弘法大師・空海が淳和天皇の勅命により、北印度の無熱池の善女龍王を勧請して祈雨を行ったと言われています。863年(貞観5年)に疫病が流行して疫病を鎮める御霊会が行われ、869年(貞観11年)に八坂神社の祭礼・祇園祭の起源と言われる御霊会が行われました。
東寺は796年(延暦15年)に桓武天皇の発願により、西寺とともに国家鎮護の官寺として、都の入口である羅城門の東に創建されました。東寺は平安京の左京、西寺は平安京の右京、または東寺は東国、西寺は西国を守る意味が込められているとも言われています。ちなみに東寺は唯一残る平安京の遺構とも言われています。その後823年(弘仁14年)に真言宗の宗祖である弘法大師・空海が嵯峨天皇から賜り、大師堂を住房とし、真言密教の根本道場になりました。東寺は「教えの王、国を護る」から教王護国寺と言われたそうです。鎌倉時代には弘法大師信仰の高まり、お大師様の寺として広く信仰されるようになりました。
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