八坂神社楼門(西楼門)・八坂神社見どころ(修学旅行)

八坂神社楼門(西楼門)

●八坂神社楼門(西楼門)は1908年(明治41年)4月23日に国の重要文化財に指定されました。
●八坂神社楼門(西楼門)は室町時代後期の1497年(明応6年)に再建されました。八坂神社楼門は四条通の東端に建立されています。なお楼門はかつて夜叉門(やしゃもん)・籠門(かごもん)とも言われていました。
八坂神社楼門(西楼門)は応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))の兵火によって焼失し、室町時代後期の1497年(明応6年)に桧皮葺の楼門として再建され、戦国時代の永禄年間(1558年~1570年)に瓦葺の楼門に葺き替えられました。ちなみに応仁の乱による兵火では祇園祭も中断し、1500年(明応9年)に33年の中断を経て復興しました。八坂神社楼門は1913年(大正2年)の四条通の拡張によって現在の場所に移され、同時に翼廊が付け加えられて現在の姿になりました。2007年(平成19年)11月30日に94年振りの大規模な改修工事が終了しました。
応仁の乱(応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん))は足利将軍家ならびに管領・畠山氏(はたけやまし)と斯波氏(しばし)の継嗣問題に端を発し、東軍総大将・細川勝元(ほそかわかつもと)方と西軍総大将・山名宗全(やまなそうぜん)方に分れ、約11年間にわたって京都を中心として争われた大乱です。足利将軍家では室町幕府第8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)には当初嗣子なく、管領・細川勝元とともに1464年(寛正5年)11月25日に弟で、天台宗(てんだいしゅう)浄土院(じょうどいん)の門跡・義尋(ぎじん)を還俗させ、足利義視(あしかがよしみ)として将軍職に就けようとしました。しかし1465年(寛正6年)11月23日に足利義政の正室・日野富子(ひのとみこ)が室町幕府第9代将軍となる足利義尚(あしかがよしひさ)を生んだことから日野氏は山名宗全とともに足利義尚を将軍職に就けようとしました。
四条通は東端の八坂神社の石段下(東大路通)から西端の松尾大社(松尾橋)まで東西に走っています。四条通はかつて新京極通から天神川近辺までは平安京の四条大路でした。
●八坂神社楼門(西楼門)は朱塗りの三間一戸の楼門です。楼門は左右に随身像(阿形の老相・吽形の青年相)が安置されています。
八坂神社随身像はヒノキ材による寄木造です。八坂神社随身像は江戸時代中期の1774年(安永3年)に七条仏所の系譜に連なる仏師によって造られました。
一般的に楼門は寺社の入口にある二階建て(重層)の門です。楼門は下層に屋根のないものを言い、下層に屋根があるものを二重門と言います。
随身は平安時代以後に貴人の外出の際、朝廷の命令で護衛として従った者です。随身は弓矢を持ち、太刀を帯びていました。随身は近衛府(このえふ・こんえふ)・舎人(とねり)・内舎人(うどねり)などが務めました。
八坂神社見どころ

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