八坂神社御旅所・八坂神社見どころ(修学旅行)

八坂神社御旅所

●八坂神社御旅所は安土桃山時代の1591年(天正19年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が大政所御旅所(おおまんどころおたびしょ)と少将井御旅所(しょうしょういおたびしょ)を統合して現在の場所に移しました。八坂神社御旅所はかつて四条通の南北に社殿が分散していたとも言われています。関白・豊臣秀吉は1586年(天正14年)に聚楽第(じゅらくてい)の造営を開始し、1589年(天正17年)から御所の新造を開始し、1591年(天正19年)から洛中を取り囲む御土居(おどい)の造営と京都改造(京都の都市改造)を命じました。市街地の東側に寺町、北部に寺之内が形成されました。1912年(明治45年)に四条通が拡幅され、現在の姿になりました。なお八坂神社御旅所は祇園祭の期間以外Otabi Kyotoとして、お土産などを販売しています。
豊臣秀吉は戦国時代(室町時代後期)の1537年(天文6年)3月17日(旧暦2月6日)に織田信長(おだのぶなが)の足軽(百姓)・木下弥右衛門(きのしたやえもん)と美濃の鍛冶・関兼貞の娘・なか(仲・天瑞院(てんずいいん))の間に生まれました。尾張国愛知郡中村郷中中村(名古屋市中村区)で生まれたとも言われています。先ず今川氏の家来で、引馬城(ひくまじょう)の支城・頭陀寺城(ずだじじょう)城主・松下之綱(まつしたゆきつな)に仕え、1554年(天文23年)頃から戦国大名・織田信長(おだのぶなが)に仕えました。1561年(永禄4年)に浅野長勝(あさのながかつ)の養女・北政所(ねね)と恋愛結婚しました。その後数々の戦功を重ねて頭角を現し、1573年(天正元年)に浅井氏が滅亡すると長浜城(ながはまじょう)城主になりました。1582年(天正10年)に明智光秀(あけちみつひで)が織田信長に謀反を起こした本能寺の変(ほんのうじのへん)後、山崎の戦い(やまざきのたたかい)で明智光秀を破り、京都の支配権を掌握しました。1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)で柴田勝家(しばたかついえ)を破りました。その後四国・九州・関東・奥羽を平定し、1590年(天正18年)に天下を統一を成し遂げました。ちなみに1585年(天正13年)に関白、翌1586年(天正14年)に豊臣姓を賜って、太政大臣になりました。その後唐入りを目指し、1592年(天正20年)から文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)が始まりました。なお豊臣秀吉は1598年(慶長3年)9月18日(旧暦8月18日)に62歳で伏見城内で亡くなりました。
大政所御旅所は平安時代中期の974年(天延2年)に東洞院高辻に住む秦助正(はたのすけまさ)が「汝の家を影向の地とせん 速やかに朝廷に奏上せよ」との八坂大神(やさかおおかみ)からの神託を夢の中で受け、第64代・円融天皇も同じ夢を見ていたことから秦助正の自宅が大政所御旅所になり、神殿が造営されたとも言われています。神託があった翌朝、八坂神社の神職は本殿から秦助正の自宅の庭の塚まで蜘蛛(くも)の糸が続いていたのを見つけたとも言われています。
少将井御旅所は起源が明確ではありません。少将井御旅所は室町時代の神道家・卜部兼邦(うらべかねくに・吉田兼邦(よしだかねくに))の「兼邦百首歌抄(うらべひゃくしゅわかしょう) 」によると少将井神輿を少将井の井桁に安置して疫病の流行を防いだとも言われています。
八坂神社見どころ

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