八坂神社四条旅所・八坂神社見所(修学旅行・観光)

八坂神社四条旅所

●八坂神社四条旅所東殿・西殿は2020年(令和2年)12月23日に国の重要文化財に指定されました。
●八坂神社四条旅所は現在の東殿が江戸時代後期の1837年(天保8年)、西殿が1901年(明治34年)に建立されました。西殿には阿吽(あうん)の随身(ずいじん・随神)が置かれています。四条旅所は1591年(天正19年)に関白・豊臣秀吉が大政所御旅所(おおまんどころおたびしょ)と少将井御旅所(しょうしょういおたびしょ)を統合し、現在の場所に移したものです。1912年(明治45年)に四条通が拡幅されると現在の姿になったとも言われています。東殿は少将井御旅所、西殿は大政所御旅所の役割を持ち、祇園祭の神幸祭と還幸祭の期間中に東殿と西殿の間に中御座神輿(なかござみこし)・東御座神輿(ひがしござみこし)・西御座神輿(にしござみこし)の3基の神輿が泰安されます。ちなみに祇園祭の期間以外Otabi Kyotoとして、お土産などを販売しています。
豊臣秀吉は1537年(天文6年)3月17日に織田信長の足軽・木下弥右衛門と美濃の鍛冶・関兼貞の娘・なか(天瑞院)の子として生まれました。最初に今川氏の家来で、頭陀寺城主・松下之綱に仕え、1554年(天文23年)頃から織田信長に仕えました。1561年(天正9年)に浅野長勝の養女・ねね(北政所)と恋愛結婚しました。その後戦功を重ねて頭角を現し、1573年(天正元年)に浅井氏が滅亡すると長浜城主になりました。1582年(天正10年)に明智光秀が信長に謀反を起こした本能寺の変が起こり、山崎の戦いで光秀を破り、京都の支配権を掌握しました。1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、その後四国・九州・関東・奥羽を平定し、1590年(天正18年)に天下を統一しました。その後唐入りを目指し、1592年(天正20年)から文禄・慶長の役を開始しました。しかし豊臣秀吉は1598年(慶長3年)9月18日に伏見城内で亡くなりました。
大政所御旅所は974年(天延2年)に秦助正が八坂大神からの神託を夢の中で受け、円融天皇も同じ夢を見ていたことから秦助正の自宅が大政所御旅所になったと言われています。
少将井御旅所は起源が明確ではありません。少将井御旅所は室町時代の「兼邦百首歌抄」によると少将井神輿を少将井の井桁に安置し、疫病の流行を防いだと言われています。
四条通は東端の八坂神社前の石段下(東大路通)から西端の松尾大社までを東西に走っています。四条通はかつて東側の新京極通から西側の天神川近辺までが平安京の四条大路でした。
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●八坂神社四条旅所東殿・西殿は二間社流造(ながれづくり)見世棚造(みせだなづくり)の銅板葺(どうばんぶき)です。
流造は神社建築の一形式です。流造は正面入口にあたる屋根の一方(前流れ)が長く延びた形式です。流造は伊勢神宮(いせじんぐう)に代表される神明造(しんめいづくり)から発展し、奈良時代末期から平安時代に成立し、全国に広がりました。流造では上賀茂神社(かみがもじんじゃ)・下鴨神社(しもがもじんじゃ)がよく知られています。
銅板葺は銅を薄くした銅板で屋根を葺く方法です。銅板葺は近世に本格的に始まり、神社・霊廟などに多く用いられています。銅板葺は瓦葺に比べると自重が軽くて耐震性があり、檜皮葺・こけら葺に比べると耐久性があるとい言われています。
見世棚造は土台の上に組まれ、正面に階段のない間口が一間ぐらいの小さな社殿です。見世棚造は神社の末社などに使われます。
【八坂神社 備考】
*参考・・・京都・八坂神社(拝観料・アクセス・歴史概要・見どころ・・・)ホームページ
●八坂神社の歴史(創建から現在)を紹介しています。
八坂神社歴史(伊利之使主・円如)
●八坂神社の見どころ(本殿・西楼門など)を紹介しています。
八坂神社見どころ(本殿・西楼門など)

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