與杼神社歴史-修学旅行・観光ポイント

與杼神社の時代別年表と重要人物

與杼神社歴史を簡単にマトメてポイント解説します。與杼神社は応和年間(961年~964年)に千観内供が佐賀・與止日女神社から淀大明神を勧請し、大荒木の森に祀って桂川の水上運輸の守護神にしたのが起源とも言われています。なお與杼神社歴史では時代別に歴史年表にまとめ、重要人物も紹介したりしています。

【前史(與止日女神社)】

★與止日女神社(よどひめじんじゃ・与止日女神社)は佐賀県佐賀市に祀られています。與止日女神社は「肥前国風土記」逸文によると564年(欽明天皇25年)11月1日に與止姫の神が鎮座したのが起源とも言われています。與止日女神社は「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)・927年(延長5年)成立」に肥前国佐嘉郡の「與止日女神社」と記され、それ以前から祀られていたとも言われています。その後応保年間(1161年~1163年)に肥前国一の宮になり、1261年(弘長元年)に神階・正一位に叙されました。

【與杼神社創建(起源・由来)】

★與杼神社は平安時代中期の応和年間(961年~964年)に天台宗(てんだいしゅう)の僧である伝燈大法師(でんとうだいほうし)・千観内供(せんかんないぐ)が肥前国佐賀郡河上村(佐賀県佐賀市大和町)の與止日女神社(よどひめじんじゃ)から淀大明神(よどだいみょうじん)を勧請し、大荒木の森に祀り、桂川(かつらがわ)の水上運輸の守護神にしたのが起源とも言われています。大荒木の森は桂川右岸の川原になっていた場所で、かつての山城国乙訓郡水垂村(京都府伏見区淀大下津町)に該当し、現在の宮前橋下流にあたります。なお千観内供は第60代・醍醐天皇(だいごてんのう)の時代(897年(寛平9年)~930年(延長8年))に鴨川の洪水によって廃寺になった愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)を再興したと言われています。
★與杼神社は「「日本三代実録(にほんさんだいじつろく)・901年(延喜元年)」」によると859年(貞観元年)に神階・従五位下に叙されたと記され、平安時代前期以前から祀られていたとも言われています。

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【平安時代(794年頃~1185年頃)の出来事】

★平安時代中期に伝燈大法師・千観内供が第62代・村上天皇(むらかみてんのう)の勅許により、大徳寺(だいとくじ)を創建し、與杼神社の神宮寺(じんぐうじ)になったと言われています。
★平安時代中期に「延喜式神名帳・927年(延長5年)成立」第9巻の「山城国乙訓郡」に記され、小社に列せられました。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の出来事】

★1607年(慶長12年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の子・豊臣秀頼(とよとみひでより)が片桐且元(かたぎりかつもと)を奉行として、本殿・拝殿(重要文化財)を再建しました。
★「徳川実紀(とくがわじっき)・19世紀前半編纂」・「山城国淀下津町記録(やましろこくよどしもづちょうきろく)」によると1623年(元和9年)に松平定綱(まつだいらさだつな)が江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)の命によって淀藩に入部を命じられ、江戸幕府の援助により、淀水運支配・河村与三右衛門(かわむらよそうえもん)の屋敷跡に淀城が築城されました。伏見城(ふしみじょ)の資材が転用され、二条城(にじょうじょう)の天守を移築して整備され、1625年(寛永2年)にほぼ完成したと言われています。翌1626年(寛永3年)に徳川秀忠と江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)が淀城の縄張りを調べに来城したとも言われています。1633年(寛永10年)に松平定綱が備中国に移封され、永井尚政(ながいなおまさ)が入部すると城下町が拡張され、侍屋敷が造営されました。その後1756年(宝暦6年)に落雷で天守や大半の建物を焼失し、江戸幕府から1万両が貸し付けられたが、天守・本丸御殿は再建されませんでした。明治維新後に廃城になり、巨椋池(おぐらいけ)の干拓で地形が変わり、本丸の一部を除いて全て破却されました。
★1649年(慶安2年)頃に本殿(重要文化財)が建て替えられたとも言われています。

【明治時代以降(1868年頃~)の出来事】

★明治時代前期に郷社に列せられました。
★1902年(明治35年)に桂川で河川敷拡幅工事された際、現在の場所である淀城本丸跡に移されました。1900年(明治33年)5月24日付の神社移転許可により、1901年(明治34年)7月から移転工事が開始され、1902年(明治35年)5月に完成し、同年6月21日に移転が完了しました。なお旧・社地は現在、御旅所になっています。
★1975年(昭和50年)に本殿(重要文化財)が花火によって焼失したが、1980年(昭和55年)3月23日に本殿が再建されました。1975年(昭和50年)の焼失から1980年(昭和55年)の再建まで三重・伊勢神宮(いせじんぐう)から贈られた由貴御倉を仮本殿としていました。なお本殿が再建されると仮本殿(由貴御倉)は日大臣社になりました。
★2000年(平成12年)に社務所が建てられました。與杼神社は1900年(明治33年)の神社移転許可から100年にあたり、それをを記念して社務所が新築されました。
★2007年(平成19年)に神輿庫が建てられました。なお同年頃に與杼神社の神宮寺だった大徳寺が伏見区淀垂水町から山科区に移転しました。

【千観内供:與杼神社創建】

伝燈大法師・千観内供は918年(延喜18年)に相模守敏貞の子として生れたと言われています。園城寺(三井寺)に入って出家し、行誉または運昭に師事して天台教学を学んだと言われています。その後市聖とも言われる空也上人の影響を受けて浄土教に傾倒し、念仏を唱えていたことから念仏上人とも言われました。民衆教化の為に阿弥陀和讃をつくりました。962年(応和2年)に摂津国(大阪)箕面山に隠遁して浄土行を行っていたが、963年(応和3年)に勅命で祈雨を祈願すると奇瑞が現れたとも言われています。その後摂津国(大阪)の金龍寺(安満寺)を再興して住し、970年(天禄元年)に行誉から三部大法を伝授されました。千観上人は「十願発心記」・「八箇条起請」などを記しました。なお伝燈大法師・千観内供は984年(永観元年)に亡くなりました。

【與杼神社歴史-修学旅行・観光ガイド 備考】
*参考・・・與杼神社(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ

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