吉田神社斎場所大元宮・吉田神社見所(修学旅行・観光)

吉田神社斎場所大元宮

●吉田神社斎場所大元宮は1902年(明治35年)7月31日に国の重要文化財に指定されました。
●吉田神社斎場所大元宮は桃山時代の1601年(慶長6年)に建立されました。斎場所大元宮は元々神職・卜部(吉田)家邸に祀られていたが、室町時代中期の1484年(文明16年)に吉田神道を創始した吉田兼倶(よしだかねとも)が現在の場所に移し、吉田神道の根本殿堂としました。桃山時代の1590年(天正18年)に天皇守護の為に宮中の神祇官に祀られていた八神殿が後方に移され、江戸時代前期の1609年(慶長14年)から1871年(明治4年)まで神祇官代として儀式を執行しました。斎場所大元宮は天神地祇八百萬神(あまつかみくにつかみやおよろづのかみ)、東神明社に天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)、西神明社に豊宇気比売神(とようけびめのかみ)、東西諸神社に式内神3,132座を祀っています。
吉田兼倶は1435年(永享7年)に卜部兼名の子として生まれました。1449年(文安6年・宝徳元年)に神祇権少副兼中務少輔(じんぎのごんしょうふくけんなかつかさのしょうゆう)になっていたとも言われ、1467年(応仁元年)に昇殿が許され、侍従兼権大副(じじゅうけんごんのたいふ)になりました。卜部家(うらべうじ)の家職・家学を継承し、「神明三元五大伝神妙経(カミトアラハレマシマスミツヽノハシメイツノスカタヲツタフルカミノタヘナルミノリ)」を著して吉田神道の基礎を築きました。1484年(文明16年)に吉田神社に斎所として虚無太元尊神(そらなきおおもとみことかみ)を祀る大元宮を創建し、全国各地の神を祀りました。1499年(明応8年)に42歳で亡くなった子・吉田兼致の為に吉田山に神龍院を創建し、長老に子・妙亀を就けました。吉田兼倶は反本地垂迹(はんほんじすいじゃく)の立場で、儒教・仏教・道教の教理をとり入れ、第103代・後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)をはじめ公卿(くぎょう)・将軍家などに教えを広め、朝廷・幕府に取り入って勢力を拡大しました。吉田兼倶は地方の神社に神位・神職に位階を授ける制度を作り上げ、吉田神道隆盛の基礎を確立しました。なお吉田兼倶は1511年(永正8年)に亡くなりました。
●吉田神社斎場所大元宮は八角殿で、入母屋造(いりもやづくり)の茅葺(かやぶき)です。社斎場所大元宮は棟に千木(ちぎ)をあげ、中央に露盤宝珠(ろばんほうじゅ)を置き、前後に勝男木(かつおぎ・鰹木)を置く特殊な構造になっています。斎場所大元宮は吉田神道の理想を形に現わしたものと言われています。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。
茅葺はイネ科のススキ・ヨシ(アシ)やカヤツリグサ科のスゲなどで屋根を葺く方法です。茅葺は世界各地で最も原初的な屋根とされ、日本では縄文時代に茅を使った屋根だけの住居(竪穴式住居)が造られていたとも言われています。なお日本最古の茅葺屋根民家は室町時代に建てられた兵庫県神戸市・箱木家住宅(国の重要文化財)です。
吉田神社

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