室町幕府12代将軍・足利義晴(あしかがよしはる)と祇園祭

室町幕府12代将軍・足利義晴と祇園祭

室町幕府12代将軍・足利義晴は1511年(永正8年)に室町幕府11代将軍・足利義澄の子としてに生まれ、1521年(大永元年)に室町幕府10代将軍・足利義稙が細川高国と対立して京都を追われると11歳で将軍に就任しました。鷲尾隆康の「二水記」には1522年(大永2年)6月27日に足利義晴が下御所の桟敷で祇園祭を見物したことが記されています。

【祇園祭2026 日程】
祇園祭2026は2026年(令和8年)7月1日(水曜日)の吉符入から2026年(令和8年)7月31日(金曜日)の疫神社の夏越祭までの7月1ヶ月に渡って行われます。
祇園祭2026日程一覧(宵山屋台・山鉾巡行・・・)

【祇園祭 歴史・簡単概要】
祇園祭(ぎおんまつり)は平安時代前期の869年(貞観11年)に全国に疫病が流行し、牛頭天王(ごずてんのう)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)の祟りであるとし、卜部日良麿(うらべのひらまろ)が神泉苑(しんせんえん)に国の数と同じ66本の鉾を立て、悪霊を移して穢れを祓い、薬師如来(やくしにょらい)の化身とされる牛頭天王を祀り、更に牛頭天王を主祭神とする八坂神社から3基の神輿を送り、病魔退散(びょうまたいさん)を祈願した祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が起源と言われています。970年(天禄元年)から毎年に行われるようになりました。
祇園祭歴史年表・由来(869年~)

【室町幕府12代将軍・足利義晴(あしかがよしはる)】
室町幕府12代将軍・足利義晴は1521年(大永元年)に室町幕府10代将軍・足利義稙(あしかがよしたね)が細川高国(ほそかわたかくに)と対立して京都を追われると僅か11歳で将軍に就任しました。足利義晴の将軍在任期間は1521年(大永元年)から1546年(天文15年)です。
権中納言(ごんちゅうなごん)・鷲尾隆康(わしのおたかやす)の日記「二水記(にすいき)」1522年(大永2年)6月27日の条に「足利義晴が祇園会(祇園祭)を見物するため下御所に赴く。伊勢貞孝、大舘尚氏等が供をする。」と記され、足利義晴は室町幕府12代将軍に就任した翌年に祇園祭を下御所の桟敷で見物したことが分かります。足利義晴には政所執事(まんどころしつじ)で、足利義晴臨終の際に遺言を聞いた伊勢貞孝(いせさだたか)や幕臣の長老で、娘を足利義晴の側室とした大舘尚氏(おおだてなおうじ)がお供をし、細川高国らと見物しました。「祇園会御見物御成記(ぎおんえごけんぶつおなりき)」によると足利義晴は雑煮やタイの焼き物などを食べたことが記されています。ちなみに京都府立大学和食文化学科と大和学園京都調理師専門学校は古文書から足利義晴をもてなした三献13品が再現されたそうです。なお足利義晴は1548年(天文17年)6月にも嗣子で、室町幕府13代将軍・足利義輝(あしかがよしてる)とともに細川晴元(ほそかわはるもと)が用意した京極大路の桟敷で祇園祭を見物しました。細川晴元は通常の山鉾巡行ルートを変更し、山鉾巡行が見物できるように手配しました。なお山鉾巡行ルートは室町時代(1336年~1573年)中期頃に固定されたと言われているが、将軍など時の権力者の意向などによってルートが変更される場合もあったようです。

●足利義晴は1511年(永正8年)4月2日に室町幕府11代将軍・足利義澄と日野永俊の娘・阿子(安養院)の間に長男または次男として、近江国(滋賀)蒲生郡の水茎岡山城で生まれたとも言われています。ただ父・足利義澄は1505年(永正2年)に阿子と離縁しており、生母は下級の侍女・阿与とも言われています。父・足利義澄は室町幕府10代将軍だった足利義稙(義材)が大内義興の支援によって上洛すると将軍職を解任され、六角高頼を頼って水茎岡山城に逃れ、足利義晴が誕生した同年9月6日に水茎岡山城で亡くなった為、誕生後に播磨守護・赤松義村のもとに送られて養育され、11歳で上洛するまで播磨で生活しました。1513年(永正10年)に父・足利義澄派と足利義稙(義材)派の和睦により、足利義稙(義材)の将軍職が確定しました。その後赤松義村が上洛し、足利義晴から預かった太刀・馬を足利義稙(義材)に進上し、足利義晴は足利義稙(義材)の養子になったとする史料も残されています。その後赤松義村が備前守護代・浦上村宗と対立すると播磨各地を転々としました。1521年(大永元年)に足利義稙(義材)が細川高国と対立して京都を追われると室町幕府12代将軍になりました。同年には朝廷から「義晴」の名前を与えられて従五位下に叙され、細川高国を加冠役として元服もしました。足利義稙(義材)は後柏原天皇の即位式に出仕しなかった為に後柏原天皇の信任を失ったと言われています。ただ年少だった為、細川高国や政所執事(頭人)の伊勢貞忠・飯川国信らが政務を行いました。その後細川高国一族や部下の内紛が起こり、細川高国が細川晴元に敗れると細川高国とともに近江に逃れて各所を転々とし、同母兄・足利義維を擁する堺公方も成立しました。近江国高島郡朽木庄で2年半にわたって幕府政治を行ったこともありました。1531年(享禄4年)に従三位・権大納言に昇進し、同年に細川高国が敗死するとその後細川晴元と和睦して将軍の権限を回復したが、その後も入京・逃亡を繰り返し、1546年(天文15年)に嗣子・足利義輝(義藤)に将軍職を譲りました。1549年(天文18年)に三好長慶から京都を追われ、1550年(天文19年)5月20日に近江穴太で亡くなりました。

【室町幕府12代将軍・足利義晴と祇園祭 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
祇園祭2026日程(ちまき販売・宵山屋台・・・)

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