善峯寺の歴史-修学旅行・観光の簡単解説
善峯寺の歴史を時代別年表にまとめ
善峯寺の歴史を簡単にまとめています。善峯寺は1029年(長元2年)に源算上人が自作の千手観音を本尊として小堂に安置し、阿智坂の法華院と号したのが起源です。1034年(長元7年)に後一条天皇から寺号・善峯寺を賜りました。(時代別年表・重要人物下記参照)
【善峯寺が建立されている釈迦岳】
- 善峯寺が建立されている標高約630.8メートルの釈迦岳(しゃかだけ)は京都市の西南端に位置し、一帯の山々は西山と言われています。西山は古くから霊山とされました。
【善峯寺の起源・始まり】
- 善峯寺は平安時代中期の1029年(長元2年)に恵心僧都(えしんそうず)・源信(げんしん)の弟子・源算上人(げんさんしょうにん)が自作の千手観音(せんじゅかんのん)を本尊として小堂に安置し、阿智坂(あちさか)の法華院(ほっけいん)と号したのが起源と言われています。源算上人は47歳の時に霊地を求めて西の山に入って休憩していると一人の翁神が現れて、「我はこの地の地主にて名を阿智坂という。この霊地に伽藍を草創し給え。この地を与えて永く仏法を守らん。」と告げたとも言われています。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】
- 1034年(長元7年)に第68代・後一条天皇(ごいちじょうてんのう)が鎮護国家の勅願所(ちょくがんじ)に定め、寺号「善峯寺」を賜りました。
- 1042年(長久3年)に第69代・後朱雀天皇(ごすざくてんのう)の勅命により、洛東・鷲尾寺から仁弘法師作の千手観音(せんじゅかんのん)が本尊として善峯寺に移されました。源算上人作の千手観音は別に安置されました。
- 平安時代後期に第72代・白河天皇(しらかわてんのう)から善峯寺に本堂・阿弥陀堂・薬師堂・地蔵堂・三重塔・鐘楼・二王門・鎮守七社などが寄進されました。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】
- 1192年(建久3年)に天台座主(てんだいざす)・慈円(じえん・慈鎮(じちん))が善峯寺に住し、後鳥羽上皇(第82代・後鳥羽天皇(ごとばてんのう))から宸額・善峯寺を賜りました。
- 鎌倉時代に青蓮院(しょうれんいん)から西山宮道覚入道親王(どうかくにゅうどうしんのう)が善峯寺に入寺し、西山門跡と言われるようになりました。
- 鎌倉時代に第88代・後嵯峨天皇(ごさがてんのう)、第89代・後深草天皇(ごふかくさてんのう)から崇敬されました。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】
- 室町時代に善峯寺の僧坊が52を数えました。
- 室町時代中期に第102代・後花園天皇(ごはなぞのてんのう)から善峯寺に伽藍が寄進されました。
- 室町時代中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))により、善峯寺の伽藍の多くが焼失しました。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
- 1687年(貞享4年)に江戸幕府5代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)の生母・桂昌院(けいしょういん)が子・綱吉の42歳を迎えるにあたり、善峯寺に「厄除けの鐘」を寄進しました。
- 1692年(元禄5年)に桂昌院の寄進により、観音堂・鐘楼・護摩堂・薬師堂・経堂・鎮守社などが再建されました。桂昌院は善峯寺の大檀那になりました。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
- 1876年(明治9年)に神仏分離令に伴って、覚快・道覚・慈道・尊円・尊道の五親王の尊牌が善峯寺から泉涌寺(せんにゅうじ)に移されました。
- 1885年(明治18年)に釈迦堂が建立されました。
- 1977年(昭和52年)に多宝塔が重要文化財に指定されました。
【善峯寺の開山とされる源算上人】
源算上人は983年(永観元年)に中臣氏として因幡(鳥取)に生まれたと言われています。比叡山で受戒して学び、一時還俗したが、45歳の時に娘が亡くなって再び出家しました。その後西山に善峯寺を創建し、次に三鈷寺を創建して隠遁生活を送りました。自ら阿弥陀如来像を刻み、臨終の際には弥陀を唱え、手に定印を結んで往生したと言われています。なお源算上人は1099年(康和元年)に亡くなったと言われています。
【善峯寺 備考】
*参考・・・善峯寺(歴史・見どころ・・・)ホームページ