常照寺吉野茶会(日程・時間・・・)
常照寺吉野茶会
常照寺吉野茶会(日程・時間・・・)を紹介しています。吉野茶会は例年7月から毎月第1日曜日に行われています。吉野茶会は毎月第1日曜に遺芳庵で行われる月釜です。吉野茶会は他の茶会と異なり、観光客でも気楽に入れるような茶会だそうです。なお吉野茶会では遺芳庵にある吉野太夫(よしのたゆう)が好んだ吉野窓が開けらることもあるそうです。(詳細下記参照)
【常照寺吉野茶会2016 日程時間(要確認)】
常照寺吉野茶会2016は2016年7月3日(日曜日)8:30~14:30まで行われます。
【常照寺吉野茶会 アクセス・マップ】
場所・・・京都府京都市北区鷹峯北鷹峯町45
最寄り駅・バス停・・・鷹峯源光庵前(徒歩約2分)
アクセス路線は次の通りです。(最終更新2014年末・変更の場合あり)
*四条大宮から常照寺は6系統
*北大路バスターミナルからは北1系統
路線・時刻表・運賃チェック
【常照寺吉野茶会 歴史・簡単概要】
常照寺吉野茶会(よしのちゃかい)は例年7月から毎月第1日曜に遺芳庵(いほうあん・吉野席)で行われる月釜(1年間に10回)です。吉野茶会は他の茶会と異なり、観光客でも気楽に入れるような茶会だそうです。ちなみに吉野茶会ではかつて表千家・裏千家・方円流の講師が月釜を担当したそうです。なお吉野茶会では遺芳庵にある吉野太夫(よしのたゆう)が好んだ吉野窓が開けらることもあるそうです。吉野窓(よしのまど)は仏教で悟りの姿を表す完全な円ではなく、下部が直線になっており、完全ではない自分の姿を表し、自らを戒めたとも言われているそうです。ちなみに吉野窓は一般的に完全に窓を開いた時、円形に見える丸窓のことを言うそうです。
2代目・吉野太夫は西国の武士・松田武左衛門の娘・松田徳子として方広寺近くで生まれました。その後1613年(慶長18年)に7歳で禿(かむろ)になり、1620年(元和6年)には14歳で遊女の最高ランクである太夫になりました。ちなみに吉野太夫の名前は廓の桜を見て、「ここにさへ さぞな吉野は 花盛り」と詠んだことに由来するそうです。その後吉野太夫は容姿だけではなく、和歌・俳諧・書・茶道・香道・華道などの諸芸に秀でていたことから「六条の七人衆の筆頭」・「寛永三名妓の一人」・「天下随一の太夫」と謳われ、井原西鶴の「好色一代男」に前代希代の遊女と描かれ、その名声は遠く中国にまで及んだと言われています。なお吉野太夫は1631年(寛永8年)に26歳で豪商・灰屋紹益(はいやじょうえき)に身請けされて妻になり、1643年(寛永20年)に38歳で亡くなり、遺言によって常照寺に葬られました。灰屋紹益は後水尾天皇の弟で、関白・近衛信尋と争って身請けしたと言われています。
【常照寺 歴史・簡単概要】
常照寺(じょうしょうじ)・檀林の寺(だんりんのてら)・吉野の寺は1615年(元和元年)に書家・陶芸家・芸術家である本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)が江戸幕府初代将軍・徳川家康から土地を賜って移住した光悦村の一部です。常照寺は1616年(元和2年)に光悦とその子・本阿弥光嵯(ほんあみこうさ)が法華の鎮所を建立し、鷹峰に弘通していた寂照院日乾上人(じゃくしょういんにちけんしょうにん)を招じ、寂光山常照寺と号したのが起源と言われています。その後1627年(寛永4年)に日乾上人が僧侶の養成機関である学問所・鷹峰檀林(たかがみねだんりん)を創設しました。鷹峰檀林は松ケ崎・求法院・東山・山科・鶏冠井とともに日蓮宗関西六檀林に数えられ、常照寺は常照講寺とも言われました。1628年(寛永5年)に「六条の七人衆の筆頭」・「天下随一の太夫」と謳われた六条三筋町の2代目・吉野太夫(よしのたゆう)が朱塗りの山門(赤門)を寄進しました。常照寺には2代目・吉野太夫の墓が残され、4月の第2日曜日には吉野太夫花供養が行われています。なお1872年(明治5年)の学制発布により、鷹峰檀林が廃止されました。
常照寺は日蓮宗の寺院です。
*参考・・・常照寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ
【常照寺吉野茶会 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
吉野茶会では方円流・表千家・裏千家などが担当する予定です。(要確認)
常照寺(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)情報