養源院護摩堂・養源院見どころ(修学旅行・観光)

養源院護摩堂

●養源院護摩堂は2016年(平成28年)2月9日に国の重要文化財に指定されました。
●養源院護摩堂は江戸時代前期(1615年~1661年)に建立されました。養源院では1616年(元和2年)に江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)の正室・崇源院(すうげんいん・江(ごう))が姉で、養源院開基・淀殿(よどどの)とその子・豊臣秀頼(とよとみひでより)の菩提を弔ったが、1619年(元和5年)の火災で焼失し、1621年(元和7年)に崇源院の願によって再興され、崇源院の五女(末娘)・東福門院(とうふくもんいん・徳川和子(とくがわまさこ))が宮中の祈願所となる護摩堂を併設したと言われています。
東福門院(徳川和子)は1607年(慶長12年)11月23日に江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)と正室・崇源院(すうげんいん・江(ごう))の五女として生まれました。祖父で、江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)は第107代・後陽成天皇(ごようぜいてんのう)に孫娘・徳川和子の入内(じゅだい)の内意を伝えたが、先例がないと許可しなかったが、再三の要求によって内諾しました。1612年(慶長17年)に第108代・後水尾天皇(ごみずのおてんのう)が即位し、1614年(慶長19年)に入内宣旨(せんじ)が出されました。しかし1614年(慶長19年)~1615年(慶長20年)の大坂の陣(大坂夏の陣・大坂冬の陣)・1616年(元和2年)の徳川家康の死去・1617年(元和3年)の第107代・後陽成天皇の崩御が続いて延期され、1618年(元和4年)に女御御殿の(にょうごごてん)造営が開始されたが、第108代・後水尾天皇寵愛の典侍(ないしのすけ)・四辻与津子(お与津御寮人)が第108代・後水尾天皇の第1皇子・賀茂宮(かものみや)、第1皇女・文智女王(ぶんちじょおう)を生んだおよつ御寮人事件(およつごりょうにんじけん)が起こり、更に延期されました。その後1620年(元和6年)に14歳で入内し、1623年(元和9年)に第2皇女・興子内親王(おきこないしんのう・明正天皇(めいしょうてんのう))を生みました。1624年(寛永元年)に中宮になり、1626年(寛永3年)に第2皇子・高仁親王(すけひとしんのう)、1627年(寛永4年)に第3皇子・男二宮(若宮)を生んだが、立て続けに早世しました。1629年(寛永6年)に紫衣事件(しえじけん)が起こると第108代・後水尾天皇が突然譲位し、興子内親王が第109代・明正天皇に即位し、東福門院の号を賜りました。東福門院は2皇子・5皇女を生み、江戸幕府と朝廷を献身的に繋いだと言われています。なお東福門院は 1678年(延宝6年)8月2日に亡くなりました。
●養源院護摩堂は桁行三間・梁間三間で、入母屋造(いりもやづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
養源院

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