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由岐神社拝殿・由岐神社見所(修学旅行・観光)
由岐神社拝殿
●由岐神社拝殿は1907年(明治40年)8月28日に国の重要文化財に指定されました。
●由岐神社拝殿は江戸時代前期の1607年(慶長12年)に関白・豊臣秀吉の子・豊臣秀頼が再建しました。ちなみに豊臣秀頼は1607年(慶長12年)に本殿も再建しました。拝殿からは本殿に祀られている大己貴命(おおなむちのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)・八所大明神(はっしょだいみょうじん)を拝礼します。
豊臣秀頼は1593年(文禄2年)に関白・豊臣秀吉と側室・淀殿(よどどの・浅井茶々(あざいちゃちゃ))の間の第2子として生まれました。秀頼は秀吉57歳の時の子で、健康な成長を願って、一旦捨てた形にして家臣・松浦重政(まつうらしげまさ)が拾い上げ、幼名は拾丸(ひろいまる)と言われていました。秀吉は秀頼誕生直後に甥で、関白・豊臣秀次(とよとみひでつぐ)の娘・露月院(ろげついん)と婚約させようとしたが、1595年(文禄4年)に秀次の関白職を奪って自刃させ、秀頼の継嗣としての地位を確定させました。秀頼は秀吉とともに伏見城に住んでいたが、1598年(慶長3年)8月に秀吉が死去すると秀頼は豊臣家の家督を継ぎ、秀吉の遺命によって大坂城に移り住みました。秀頼は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)後に摂津(せっつ)・河内(かわち)・和泉(いずみ)を知行する約65万石の一大名になったが、1603年(慶長8年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)の孫、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)の子・千姫(せんひめ)と結婚しました。1611年(慶長16年)に二条城で家康と会見した。その後1614年(慶長19年)の方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)によって大坂の陣(大坂冬の陣)が勃発し、翌1615年(慶長20年)6月4日に大坂夏の陣で淀殿・大野治長(おおのはるなが)らとともに山里丸で自害しました。なお豊臣秀頼は多くの神社仏閣に寄進したり、再建などに尽力したりしています。
●由岐神社拝殿は桁行六間・梁間二間で、入母屋造(いりもやづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。拝殿は懸造(かけづくり)で、中央通路に唐破風(からはふ)があります。拝殿は左右に2つに分かれ、中央に通路がある荷拝殿(にないはいでん)また割拝殿(わりはいでん)という形式です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。
檜皮葺は屋根葺手法の一形式です。檜皮葺では檜(ひのき)の樹皮を用いて屋根を葺きます。檜皮葺は日本以外では見られない日本古来の手法です。檜皮葺は飛鳥時代の668年(天智天皇7年)に滋賀県大津市の廃寺・崇福寺(すうふくじ)の諸堂が檜皮で葺かれた記録が最古の記録です。
懸造は崖などの高低差が大きい場所に仏堂などを建立する建築様式です。懸造は舞台造・崖造などとも言われています。懸造は平安時代中期には既に行われていたとも言われています。観音霊場では岩を観音菩薩(かんのんぼさつ)の降臨する霊場・補陀落山(ふだらくせん)に見立てていたとも言われています。
唐破風は弓形のように中央部を丸みをつけ、両端が反りかえった曲線状に造形した破風です。軒唐破風は屋根本体の軒先を丸みを帯びた造形した破風です。向唐破風は屋根本体とは別に出窓のように造形した破風です。なお破風は切妻造(きりづまづくり)・入母屋造(いりもやづくり)の屋根の妻の三角形の部分です。
由岐神社