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御香宮神社本殿・御香宮神社見所(修学旅行・観光)
御香宮神社本殿
●御香宮神社本殿は1985年(昭和60年)5月18日に国の重要文化財に指定されました。
●御香宮神社本殿は墨書銘による江戸時代初期(桃山時代)の1605年(慶長10年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)の命により、京都所司代・坂倉勝重(いたくらしげかつ)を普請奉行として建立されました。江戸時代の修復の際には伏見奉行に出願し、紀伊・尾張・水戸の徳川三家からの寄進金と氏子一般の浄財で行われました。 また大修理の際には神主自ら江戸に下って寺社奉行に出願し、江戸幕府直接の寄進を仰ぎました。1990年(平成2年)に修理が行われ、約390年振りに極彩色が復元されました。本殿は主祭神に神功皇后(じんぐうこうごう)、相殿神に応神天皇(おうじんてんのう)・仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)・仁徳天皇(にんとくてんのう)・高良大明神(こうらだいみょうじん)・宇倍大明神(うべだいみょうじん)・瀧祭神(たきまつりのかみ)・河上大明神(かわかみだいみょうじん)・菟道稚郎子尊(うじのわきいらつこのみこと)・白菊大明神(しらぎくだいみょうじん)を祀っています。
徳川家康は1543年(天文11年)に三河国額田郡岡崎城主で、安城松平家8代当主・松平広忠と於大の方(伝通院)の長男として生まれました。幼少期に織田氏・今川氏の人質として過ごし、1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を討つと岡崎に戻り、織田信長と同盟を結んで勢力を拡大しました。1582年(天正10年)の本能寺の変で織田信長が自刀するとは関白・豊臣秀吉と対立するが、その後和睦して豊臣秀吉の天下統一に協力します。小田原征伐後に豊臣秀吉の命によって関東への転封を命ぜられ、豊臣政権で最大の領地を得るとともに豊臣政権の五大老筆頭になりました。1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなり、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで西軍に勝利し、1603年(慶長8年)に江戸幕府初代将軍になりました。1605年(慶長10年)に徳川秀忠に将軍職を譲って大御所になり、1615年(慶長20年)に大坂の陣で豊臣氏を滅亡させました。なお徳川家康は1616年(元和2年)6月1日になくなりました。
神功皇后は第14代・仲哀天皇の皇后で、第15代・応神天皇の母です。神功皇后は第14代・仲哀天皇の死後、201年(神功元年)から269年(神功69年)まで摂政として、三韓征伐などの政事を行い、100歳で亡くなったとも言われています。ちなみに神功皇后はお腹に月延石(鎮懐石)を当てて晒しを巻き、冷やすことによって出産を遅らせ、第15代・応神天皇を生んだとされています。
●御香宮神社本殿は五間社(ごけんしゃ)流造(ながれづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。本殿は向拝(こうはい)三間です。本殿は正面の頭貫(かしらぬき)・木鼻(きばな)・蟇股(かえるまた)や 向拝の手挟(たばさみ)に彫刻が施されて極彩色に飾られています。また背面の板壁には柳・梅の絵も描かれ、豪壮華麗で桃山時代の特徴を表わしていると言われています。
流造は神社建築の一形式です。流造は正面入口にあたる屋根の一方(前流れ)が長く延びた形式です。流造は伊勢神宮(いせじんぐう)に代表される神明造(しんめいづくり)から発展し、奈良時代末期から平安時代に成立し、全国に広がりました。流造では上賀茂神社(かみがもじんじゃ)・下鴨神社(しもがもじんじゃ)がよく知られています。流造では正面(桁行)の柱間が1間(柱2本)の場合には一間社流造、3間(柱4本)の場合には三間社流造、5間(柱6本)の場合には五間社流造になります。
檜皮葺は屋根葺手法の一形式です。檜皮葺では檜(ひのき)の樹皮を用いて屋根を葺きます。檜皮葺は日本以外では見られない日本古来の手法です。檜皮葺は飛鳥時代の668年(天智天皇7年)に滋賀県大津市の廃寺・崇福寺(すうふくじ)の諸堂が檜皮で葺かれた記録が最古の記録です。
向拝は寺院・神社建築で仏堂・社殿の屋根の中央が前方に張り出した部分です。向拝は仏堂・社殿の入口に階段上に設けられることから階隠(はしかくし)とも言われています。
御香宮神社