二条城の見どころ-修学旅行・観光の簡単まとめ

二条城唐門・二条城見どころ

二条城の国宝・重文などの文化財の見どころ解説

二条城の見どころを簡単にまとめて解説します。見どころには鴬張りの廊下で繋がれている二の丸御殿(国宝)、小堀遠州が作庭した美しい二の丸庭園(特別名勝)、本丸御殿(重要文化財)などがあります。また唐門・本丸庭園・清流園なども見逃せません。

【大政奉還の意思が発表された二の丸御殿(国宝)の解説】

  • 概要:二の丸御殿は絶対に見る価値があるハイライトです。二の丸御殿は城内で最初に造営され、江戸時代(1603年~1868年)前期に徳川家康(とくがわいえやす)・秀忠(ひでただ)・家光(いえみつ)、江戸時代末期に家茂(いえもち)・慶喜(よしのぶ)が入城しました。二の丸御殿は築地塀(つきじべい)に囲まれ、建物面積は約3,300平方メートル(約1千坪)です。部屋は33室あり、畳が約800畳敷です。二の丸御殿には狩野探幽(かのうたんゆう)ら狩野派の絵師が描いた障壁画(しょうへきが)などが飾られていました。
  • 歴史:二の丸御殿は1603年(慶長8年)に造営されました。1611年(慶長16年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康が関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の子・豊臣秀頼(とよとみひでより)と会見し、豊臣家を滅亡させる決意をしたとも言われています。1867年(慶応3年)には江戸幕府15代将軍・徳川慶喜が大政奉還(たいせいほうかん)の意思を大広間で発表しました。なお大政奉還後に府庁が置かれたり、一時陸軍省になったりしたこともありました。
  • 様式:二の丸御殿は武家風書院造(しょいんづくり)です。二の丸御殿は車寄(くるまよせ)・遠侍(とおざむらい)・式台(しきだい)・大広間・蘇鉄(そてつ)の間・黒書院・白書院が斜めに配置され、鴬張りの廊下(うぐいすばりのろうか)などで繋がれています。
  • 車寄は四半敷き(しはんじき)の玄関で、牛車(御所車(ごしょぐるま))で中に入れます。欄間(らんま)に鸞鳥(らんちょう)・松・牡丹(ぼたん)などが彫刻されています。車寄は入母屋造(いりもやづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。
  • 遠侍は二の丸御殿内で最大の床面積を有し、勅使(しょくし)の間などがあります。勅使の間では将軍が天皇の使者である勅使を迎え、勅使が上段、将軍が下段に座りました。遠侍は入母屋造の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。
  • 式台には表の式台の間などがあります。式台では老中が執務を行い、大名と挨拶したり、献上品が取り次がれたりしました。式台は入母屋造の本瓦葺です。
  • 大広間は最も格式が高く、一の間・二の間などがあります。一の間・二の間では将軍が大名・公卿(くぎょう)衆と対面しました。大広間は入母屋造の本瓦葺です。
  • 蘇鉄の間は前に佐賀藩初代藩主・鍋島勝茂(なべしまかつしげ)が献上した蘇鉄があります。蘇鉄は樹齢150年以上と言われています。蘇鉄の間は入母屋造の本瓦葺です。
  • 黒書院は小広間で、一の間(桜の間)などがあります。黒書院は将軍と親藩大名(しんぱんだいみょう)・譜代大名(ふだいだいみょう)のみが入ることができ、内輪の謁見(えっけん)が行われました。黒書院は本瓦葺の入母屋造です。
  • 白書院は御座(ござ)の間で、将軍の居間・寝室です。白書院には一の間などがあります。白書院は将軍とおつきの女性のみが入ることができました。白書院は入母屋造の本瓦葺です。
  • 鴬張りの廊下は歩くと鴬が鳴くような音が出るように造られています。鴬張りの廊下には床板とそれを支える根太に2個の釘穴がある目かすがい(鎹)と言われる特殊な金具が使われ、床板の上を歩くと目かすがいが上下して釘と擦れ合い、鴬が鳴くような音がします。
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【小堀遠州が作庭した二の丸庭園(特別名勝)の解説】

  • 概要:二の丸庭園は二の丸御殿に次ぎ、見る価値があるハイライトです。二の丸庭園は四季を通して美しい情景が見られます。二の丸庭園は池泉回遊式庭園です。池に蓬莱島・亀島・鶴島があり、亀島・鶴島はどの角度からも鶴と亀に見えるように石組みがされています。また大石橋(自然石)・浮き石などもあります。
  • 歴史:二の丸庭園は1602年(慶長7年)から1603年(慶長8年)頃に大名・茶人・作庭家で、作事奉行(さくじぶぎょう)・小堀遠州(こぼりえんしゅう)が作庭しました。1624年(寛永元年)から第108代・後水尾天皇の行幸に伴って一部が改修されました。二の丸庭園では増築された行幸御殿(ぎょうこうごてん)上段の間(天皇の座)からを第1正面、二の丸御殿大広間上段の間(将軍の座)からを第2正面、二の丸御殿黒書院上段の間(将軍の座)からを第3正面とする三正面式に改修され、複数の視点があることから八陣の庭(はちじんのにわ)と言われました。行幸後の1627年(寛永4年)から行幸御殿などが移築・撤去が行われました。その後江戸幕府8代将軍・徳川吉宗(とくがわよしむね)の時代に改修され、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜の上洛時に池が枯れて枯山水(かれさんすい)風になり、明治維新後に5回以上改修が行なわれました。
  • 豆知識:二の丸庭園はかつて書院造庭園で、神仙蓬莱(しんせんほうらい)の世界を表現していたとも言われています。

【二の丸御殿の出入口である唐門(重要文化財)の解説】

  • 概要:唐門は見逃せません。唐門は二の丸御殿の入口にある正門で、鍮石門(ちゅうせきもん)とも言われています。唐門は冠木(かぶき)・梁(はり)の上に牡丹(ぼたん)に蝶(ちょう)・龍虎(りゅうこ)・亀(かめ)に乗る仙人などの極彩色の彫刻があります。
  • 歴史:唐門は1624年(寛永元年)から1626年(寛永3年)に造営されました。唐門では修理の際に天皇家を表す菊の金具下から徳川家の三つ葉葵(みつばあおい)の紋が見つかりました。
  • 様式:唐門は四脚門(しきゃくもん・向唐門(むこうからもん))で、切妻造(きりづまづくり)の檜皮葺です。前後に軒唐破風(のきからはふ)付きです。
  • 豆知識:かつての唐門(国宝)は伏見城から二条城に移され、1627年(寛永4年)に金地院崇伝(以心崇伝)が江戸幕府から譲り受けて南禅寺の塔頭・金地院に移し、豊国神社再建の際に金地院から豊国神社に移されました。

【旧桂宮邸から移築された本丸御殿(重要文化財)の解説】

  • 概要:本丸御殿は第122代・明治天皇(めいじてんのう)の意向により、本丸に移築されました。本丸御殿には玄関・御常御殿(おつねごてん)・御書院・台所・雁之間(がんのま)があります。御常御殿には中二階があり、三階建に見えます。
  • 歴史:本丸御殿は1893年(明治26年)から1894年(明治27年)に京都御所の北側にあった旧桂宮邸を移して再建されました。旧桂宮邸では第120代・仁孝天皇(にんこうてんのう)の皇女・和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)が江戸幕府14代将軍・徳川家茂に降嫁する前に一時住んでいたそうです。また本丸御殿では第123代・大正天皇(たいしょうてんのう)が皇太子(こうたいし)時代に約10回滞在したと言われています。
  • 玄関には車寄・内玄関・取次詰所・玄関の間などがあります。玄関は入母屋造の桟瓦葺、車寄は唐破風造の銅板葺です。
  • 御常御殿には御座の間松鶴の間・化粧の間などがあります。二階には御座所・次の間・控の間があります。御常御殿は西面が入母屋造、東面が寄棟造です。
  • 御書院:御書院には雲鶴一の間・雲鶴二の間などがあります。御書院は入母屋造の桟瓦葺です。
  • 雁之間には雁の間・台所があります。雁之間は切妻造の桟瓦葺です。
  • 豆知識:かつての本丸御殿は二の丸御殿と同じ規模だったが、1750年(寛延3年)に落雷で天守閣(てんしゅかく)が焼失し、1788年(天明8年)の天明の大火で他の建物も焼失しました。

【東南隅櫓(重要文化財)・西南隅櫓(重要文化財)の解説】

  • 概要:東南隅櫓・西南隅櫓は東南隅櫓が二条城の東南角、西南隅櫓が二条城の西南角に造営されています。ちなみに二条城には東北隅櫓・北西隅櫓も造営されていたが、1788年(天明8年)の天明の大火で焼失しました。
  • 歴史:東南隅櫓・西南隅櫓は慶長年間(1596年~1615年)に造営され、寛永年間(1624年~1645年)に改修されました。
  • 様式:東南隅櫓・西南隅櫓は二重二階櫓で、多門塀が付属しています。東南隅櫓・西南隅櫓は入母屋造の本瓦葺です。

【本丸の正門になっている本丸櫓門(重要文化財)の解説】

  • 概要:本丸櫓門は内堀に掛かる東橋を渡った本丸の入口に造営され、本丸の正門になっています。本丸櫓門は1788(天明8年)の天明の大火で焼失を免れ、本丸内で唯一焼け残った建物です。
  • 歴史:本丸櫓門は1626年(寛永3年)に造営されました。
  • 様式:本丸櫓門は北側・南側に袖塀(そでべい)が付属しています。本丸櫓門は入母屋造の本瓦葺です。

    【北大手門(重要文化財)・東大手門(重要文化財)の解説】

    • 概要:北大手門・東大手門は北大手門が竹屋町通、東大手門が堀川通に面しています。東大手門は二条城の正門です。
    • 歴史:北大手門は慶長年間(1596年~1615年)に造営され、寛永年間(1624年~1645年)に改修されました。東大手門は1626年(寛永3年)に第108代・後水尾天皇が行幸した際に上から見下ろす櫓門から一重門(いちじゅうもん)に変えられ、行幸後に櫓門に戻されました。東大手門は1626年(寛永3年)頃に造営されました。
    • 様式:北大手門・東大手門は入母屋造の本瓦葺です。

    【芝庭風築山式の本丸庭園の解説】

    • 概要:本丸庭園は芝庭風築山式(しばにわふうつきやましき)庭園です。本丸庭園は芝生や植樹を中心に東南角に築山(月見台)が築かれ、芝生が敷き詰められ、曲線的に園路が設けられています。
    • 歴史:本丸庭園は1788年(天明8年)の天明の大火で空地になり、幕末に江戸幕府15代将軍・徳川慶喜の居室が建てられた際に茶庭(ちゃてい)風に作庭されたと言われています。その後居室が撤去され、本丸庭園は空地に戻りました。1893年(明治26年)からの本丸御殿移築に伴って、枯山水庭園に作庭されました。その後1895年(明治28年)に第122代・明治天皇が改修を命じ、1896年(明治29年)に芝庭風築山式庭園が完成しました。

    【池泉回遊式山水園と洋風庭園を組み合わせた清流園の解説】

    • 概要:清流園(せいりゅうえん)は見逃せません。清流園は桜シーズンに桜の美しい情景に魅了されます。清流園は池泉回遊式山水園と洋風庭園を組み合わせた和洋折衷(わようせっちゅう)庭園です。清流園には旧角倉(すみのくら)屋敷の一部と庭石・庭木などが使われています。また清流園には全国から集めた銘石なども使われています。
    • 歴史:清流園にはかつて天守閣の一部などがあり、その後在番衆(ざいばんしゅう)の住居になりました。明治維新後に住居が撤去されて緑地に整備され、1915年(大正4年)に大正天皇即位式饗宴(きょうえん)の儀の会場になり、その後造園家・小川治兵衛(おがわじへえ)が疎林(そりん)式庭園に作庭しました。1950年(昭和25年)に進駐軍のテニスコートに転用されたが、その後「昭和の小堀遠州」と称えられた造園家・中根金作(なかねきんさく)が中心になって設計し、1965年(昭和40年)に清流園が完成しました。清流園の名称は京都市長が名付けました。
    • 行事:清流園には枝垂桜などの桜が植えられ、春に茶室・和楽庵(わらくあん)で茶席が設けられます。晴れた日に野点席(のだてせき)も設けられます。また夜間にライトアップが行われることもあります。ちなみに例年5月に市民煎茶の会、例年10月下旬頃から11月上旬頃に市民大茶会も行われています。
    • 豆知識:1986年(昭和61年)にイギリスのチャールズ皇太子・ダイアナ元皇太子妃が来日した際、清流園でガーデンパーティーが行われました。

    ●上記以外は下記リンクから確認することができます。
    二条城見どころ(堀(外堀・内堀)・石垣など)

    【二条城の見どころ 備考(参考リンク・・・)】
    *参考・・・ 二条城(見どころ・アクセス・・・)ホームページ

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