銀閣寺の見どころ簡単解説-修学旅行・観光の豆知識
銀閣寺の見どころは銀閣・東求堂・庭園・銀沙灘・向月台・展望所などです。
銀閣寺の見どころを簡単にまとめて解説します。文化財・見どころには室町時代に室町幕府8代将軍・足利義政が建てた銀閣(国宝)と東求堂(国宝)、足利義政が作庭した庭園(特別名勝・特別史跡)などがあります。また異彩を放つ砂の銀沙灘・向月台等も見逃せません。なお文化財・見どころの概要・歴史・様式・豆知識などを解説しています。
【銀閣寺の歴史・簡単概要】
銀閣寺とは正式名称を東山・慈照寺と言います。銀閣寺は平安時代(794年~1185年)中期に智証大師・円珍が創建し、寛仁年間に天台座主25世・明求が堂宇を再建したが、室町時代(1336年~1573年)中期の応仁の乱で焼失した浄土寺があった場所です。銀閣寺は1473年(文明5年)に室町幕府8代将軍・足利義政が長子・義尚に将軍職を譲り、浄土寺跡に東山山荘・東山殿の造営を始めたのが起源です。東山殿の名称は第103代・後土御門天皇から賜りました。1490年(延徳2年)に義政が亡くなり、遺命によって東山殿が相国寺派の禅寺・慈照院に改められました。慈照院の寺号は義政の法号・慈照院殿喜山道慶に由来しています。
【足利義政が建て、京の三閣に数えられる銀閣(国宝)】
- 銀閣の概要:銀閣は修学旅行・観光で絶対に見る価値がある文化財です。銀閣は「名所図会(めいしょずえ)」に紹介された古くから人気の観光名所です。銀閣は足利義政が建て、わび・さびと言われる幽玄性を特徴とする東山文化を代表する建物で、金閣と並ぶ楼閣建築の双璧とされています。銀閣は観音殿(かんのんでん)と言われ、2階に観音菩薩(かんのんぼさつ)坐像を安置しています。室町幕府8代将軍で、足利義政(あしかがよしまさ)は1階を心空殿(しんくうでん)、2階を潮音閣(ちょうおんかく)と命名しました。なお銀閣は金閣寺の金閣・西本願寺(にしほんがんじ)の飛雲閣(ひうんかく)とともに京の三閣に数えられています。
- 銀閣の歴史:銀閣は1489年(長享3年)に足利義政が建てました。ただ足利義政は完成を見ることなく亡くなったと言われています。銀閣は1489年(長享3年)3月に立柱上棟が行われたが、同年10月に足利義政が病に倒れ、翌1490年(延徳2年)1月7日に亡くなりました。その後江戸時代(1603年~1868年)に数度改修されました。なお銀閣は金閣の2階・3階や苔寺(こけでら・西芳寺(さいほうじ))舎利殿(しゃりでん・瑠璃殿(るりでん))を参考にして建てられたと言われています。足利義政が1487年(文明19年)に金閣寺を不意に訪れた記録が残されています。
- 銀閣の様式:銀閣は木造2階建ての楼閣建築で、1階が住宅風様式、2階が禅宗様式(唐様(からよう))です。銀閣は屋根が宝形造(ほうぎょうづくり)のこけら葺(こけらぶき)です。なお銀閣は1階が東西約8.2メートル・北約7.0メートル・南約5.9メートルです。南が北よりも短くなっています。
- 銀閣の仏像:観音菩薩坐像は像高約54センチで、憂いのある表情で、結跏趺坐(けっかふざ)に定印(じょうい)を結んでいます。観音菩薩坐像は背後に洞窟(岩屋)があることから洞中観音(どうちゅうかんのん)と言われています。また岩屋観音とも言われています。
- 銀閣の銀箔:銀閣は2007年(平成19年)の奈良文化財研究所による科学的調査により、一度も銀箔(ぎんぱく)が張られていなかったことが判明しました。ただ2階の内外壁に黒漆(くろうるし)、軒(のき)まわりの部材に色鮮やかな彩色文様があったことが分かりました。2階は当初から内壁・外壁も黒漆塗ぬりだったと言われています。
- 銀閣の名称:銀閣が銀閣と言われるようになったのは江戸時代(1603年~1868年)以降です。名称は銀箔を貼る予定だったが、財政難や足利義政の死によってできなかったとも、外壁の黒漆が日光によって美しく銀色に輝いて見えたからとも言われています。江戸時代前期の「洛陽名所集(らくようめいしょしゅう)」には銀箔に美しく彩られた銀閣があることが記され、江戸時代中期の「山州名跡志(さんしゅうめいせきし)」には銀箔がなく、趣から銀閣という旨が記されています。名称の由来は謎と言えるかもしれません。
- 銀閣の豆知識:銀閣は「名所図会」によると18世紀後半頃(江戸時代中期から後期)まで屋根に美しい鳳凰(ほうおう)ではなく、宝珠(ほうじゅ)が置かれていました。
【足利義政が銀閣よりも先に建てた持仏堂である東求堂(国宝)】
- 東求堂の概要:東求堂(とうぐどう)は銀閣に次ぎ、修学旅行・観光で見る価値がある文化財です。東求堂は足利義政が銀閣よりも先に建て、銀閣とともに東山文化を代表する建物です。東求堂は足利義政の持仏堂(じぶつどう)で、西方極楽浄土(さいほうごくらくじょうど)の教主・阿弥陀如来(あみだにょらい)立像を安置する阿弥陀堂として建てられました。東求堂には足利義政像も安置されています。東求堂は四室に分かれ、書斎・同仁斎(どうじんさい)や仏間などがあります。同仁斎には机である付書院(つけしょいん)と物を収納する違棚(ちがいだな)があります。同仁斎は元来四畳半の茶室だが、足利義政は書斎として使いました。
- 東求堂の歴史:東求堂は1486年(文明18年)に足利義政が建てました。東求堂は銀閣よりも先に建てられ、住宅遺構として最も古いと言われています。東求堂は1963年(昭和38年)から1965年(昭和40年)の解体修理の際、東求堂創建時の姿に戻されました。
- 東求堂の様式:東求堂は屋根が入母屋造(いりもやづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。同仁斎は日本最古の書院造(しょいんづくり)で、四畳半茶室の起源と言われています。なお東求堂は東西南北6.9メートルの正方形です。
- 東求堂の名称:東求堂・同仁斎の名称は相国寺(しょうこくじ)79世・横川景三(おうせんけいさん)が撰し、足利義政が選んだ「東方の人、念仏して西方に生ずるを求む」・「聖人は一視して同仁」に由来しています。横川景三は1489年(長享3年)に足利義政の嗣子で、室町幕府9代将軍・足利義尚が近江の合戦中に24歳で亡くなり、新盆を迎えた際、東求堂から山面を望み、均整の取れた大文字の字形を定めてたと言われ、五山送り火・大文字の起源の一説になっています。
- 東求堂の豆知識:東求堂は銀閣の東隣、向月台がある場所に建てられていたと言われています。江戸時代前期の寛永年間(1624年~1644年)に方丈(本堂)などが建立され、現在の場所に曳(ひき)家によって移動させられたと言われています。
【足利義政が作庭し、唯一残された庭園(特別名勝・特別史跡)】
- 庭園の概要:庭園は修学旅行・観光で見る価値があります。庭園は足利義政が作庭し、足利義政が作庭した庭園の中で唯一残された庭園と言われています。庭園は歴史的価値があります。庭園は四方正面の庭とも言われ、どの角度・場所からも美しい光景が見られます。庭園は錦鏡池(きんきょうち)を中心とする池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)庭園です。錦鏡池には白鶴島(はっかくとう)があり、石橋が架けられたり、大内石などが置かれたりしています。庭園は四方正面の庭とも言われています。
- 庭園の歴史:庭園は足利義政が女人禁制(にょにんきんせい)の苔寺(西芳寺)の庭園を母・日野重子(ひのしげこ)に見せる為に模して自ら作庭したと言われています。相国寺の禅僧や河原者(かわらもの)の善阿弥(ぜんあみ)が作庭に関わったと言われています。その後江戸時代(1603年~1868年)に改修され、当初の面影は失われたと言われています。
- 庭園の様式:庭園には足利義政の浄土信仰・蓬莱神仙(ほうらいしんせん)思想が表現されているとも言われています。なお庭園はかつて漱蘚亭跡(そうせんていあと)にあった枯山水式(かれさんすいしき)庭園と上下二段の庭園だったと言われています。
- 庭園の名石:名石には大内石・北斗石・浮石・坐禅石(夢窓疎石(むそうそせき))があります。大内石は守護大名・大内政弘(おおうちまさひろ)が足利義政に献上したと言われています。なお江戸時代後期の地誌「都名所図会(みやこめいしょずえ)」によると細川石・畠山石・山名石などがあったと言われています。
- 庭園の豆知識:石橋には濯錦橋(たっきんきょう)・分界橋(ぶんかいきょう)・迎仙橋(げいせんきょう)・龍背橋(りゅうはいきょう)・臥雲橋(がうんきょう)・仙桂橋(せんけいきょう)・仙袖橋(せんしゅうきょう))があります。
【枯山水式庭園だった漱蘚亭跡】
- 漱蘚亭跡の概要:漱蘚亭(そうせんてい)跡は1931年(昭和6年)に発掘されました。漱蘚亭跡には庭園の崩れかかった石組・泉・水流の跡が残されています。漱蘚亭跡は枯山水式庭園で、錦鏡池を中心とする池泉回遊式庭園と上下二段の庭園だったと言われています。漱蘚亭跡は池泉回遊式庭園と異なった魅力があったようです。
- 漱蘚亭跡の歴史:漱蘚亭跡は室町時代(1336年~1573年)中期に足利義政が絵師・相阿弥(そうあみ)に苔寺(西芳寺)の庭園・竜淵水(りゅうえんすい)の石組を模して作庭させたとも言われています。
【本尊・釈迦牟尼仏像を祀る方丈(市指定文化財)】
- 方丈の概要:方丈は銀閣寺の本堂で、本尊・釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)像を安置しています。また足利義政と妻・日野富子(ひのとみこ)の位牌も安置しています。方丈には西の間・室中の間・東の間・上官の間があります。方丈には額「東山水上行(とうざんすいじょうこう」が掛けられ、俳人・画家である与謝蕪村(よさぶそん)や文人画家・書家である池大雅(いけのたいが)が描いた襖絵(ふすまえ)が飾られています。チャンスがあれば見ましょう。
- 方丈の歴史:方丈は寛永年間(1624年~1644年)に再建されたと言われています。
- 方丈の豆知識:方丈からは東山三十六峰(ひがしやまさんじゅうろっぽう)の第十峰にあたる標高約194メートルの月待山(つきまちやま)の絶景が眺められます。足利義政は「わが庵は 月待山の麓にて 傾むく空の 影をしぞ思う」と読み、美しい光景を楽しんでいたようです。
【砂で作られ、異彩を放つ銀沙灘・向月台】
- 銀沙灘・向月台の概要:銀沙灘(ぎんしゃだん・ぎんさだん)・向月台(こうげつだい)は修学旅行・観光で見逃せません。銀沙灘・向月台はいずれも砂で作られ、山内で一味違った異彩を放っています。銀沙灘・向月台は月や月見みに関係するとも言われています。
- 銀沙灘:銀沙灘は砂を美しい波形に盛り上げたものです。銀沙灘は高さ約35~40センチで、月の光を反射させる為に造られたとも言われています。また銀沙灘は中国・杭州(こうしゅう)の世界遺産・西湖(せいこ)をモデルにしているとも言われています。
- 向月台:向月台は砂を美しい富士山型(円錐(えんすい)型)に積み上げたものです。向月台は高さ約1.8メートル・底部約3メートル・頂部約1.2メートルで、月の光を反射して銀閣を照らすとも言われています。また向月台に座って上ってくる月を待っていたとも言われています。
- 銀沙灘・向月台の歴史:銀沙灘・向月台は安土桃山時代(1573年~1603年)以前から造られ、江戸時代(1603年~1868年)の修復の際に拡大したとも言われています。400年以上の歴史があるとも言われています。
- 銀沙灘・向月台の豆知識:銀沙灘・向月台は原則1ヶ月に1度庭師が美しく整形しています。荒天などの場合には臨時に整形されています。
【足利義政が茶の湯に使用した相君泉・洗月泉】
- 相君泉の概要:相君泉(そうくんせん)は足利義政が茶の湯に使用したと言われています。相君泉は現在も茶会で使用されています。相君泉はお茶の井とも言われています。
- 洗月泉の概要:洗月泉(せんげつせん)は湧き水が山から湧き出しています。洗月泉の名称は泉に月が映った時に泉のさざ波が月を洗っているように見えることから名付けられました。美しい情景が思い浮かびます。湧き水は天候などにもよるが、三筋流れていると言われています。
【銀閣寺山内を一望できる展望所(展望台)】
- 展望所の概要:展望所(展望台)は境内の高台にあり、境内の絶景だけでなく、京都市街地も眺めることができます。展望所にはかつて超然亭(ちょうねんてい)があったと言われています。展望所からは紅葉シーズンに紅葉で美しく彩られた境内を眺めることができます。チャンスがあればもみじ狩りを楽しみましょう。
●上記以外は下記リンクから確認することができます。
銀閣寺見どころ(八幡社・手水鉢・紅葉・・・)
【銀閣寺 備考(参考リンク・・・)】
*参考・・・銀閣寺(見どころ・アクセス・・・)ホームページ