本隆寺本堂・本隆寺見所(修学旅行・観光)

本隆寺本堂

●本隆寺本堂は2014年(平成26年)1月27日に国の重要文化財に指定されました。
●本隆寺本堂は江戸時代前期の1653年(承応2年)の火災で焼失し、1657年(明暦3年)に再建されました。棟札には1657年(明暦3年)に棟上げされたことが記され、屋根の鬼瓦には1659年(万治2年)と刻まれ、棟上げから屋根瓦の葺き終わりまでに2年掛かったと言われています。本堂は京都16本山の中で最古の本堂です。ちなみに本隆寺が建立されている京都西陣では江戸時中期の1730年(享保15年)の西陣焼けと江戸時代後期の1788年(天明8年)の団栗(どんぐり)焼け(天明の大火・申年の大火)という大火に見舞われ、本隆寺も一部の伽藍が類焼したが、団栗焼けで西陣一帯が焼け野原になったのと異なり、本堂と祖師堂・宝庫が焼失を免れたことから「焼けずの寺」とも言われています。ただ山門・鐘楼・方丈・塔頭(たっちゅう)は焼失しました。2016年(平成28年)度から2023年(令和5年)度まで解体修理が行われる予定です。本堂は内陣・外陣・脇陣で構成され、内陣中央に須弥壇(しゅみだん)、両脇に宮殿を据えた脇壇(わきだん)が置かれ、三宝尊(題目宝塔(だいもくほうとう)・釈迦如来(しゃかにょらい)・多宝如来(たほうにょらい))の本尊として祀っています。
西陣焼けは1730年(享保15年)6月20日午後2時頃に大文字屋五兵衛宅の台所から出火し、南北両方向に燃え広がり、東風に変わると西側に広がり、その後一条浄福寺と北野松梅院に飛び火し、最後に飛び火が一つになって西陣一帯がほぼ焼き尽くされ、21日早朝に鎮火しました。
団栗焼けは1788年(天明8年)1月30日早朝に団栗辻子の民家から出火し、当初鴨川東側だけに燃え広がっていたが、強い東風によって鴨川西側に飛び火し、次第に南北両方向にも燃え広がり、2月2日朝に鎮火しました。1月30日・2月1日・2月2日の二昼夜燃え続け、当時の京都市街地がほぼ焼け野原になりました。
●本隆寺本堂は桁行七間(桁行約21.6メートル)・梁間七間(梁間約18.8メートル)で、入母屋造(いりもやづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。本堂は正面と背面に向拝(こうはい)付きです。柱は太く均整がとれ、平面構成は日蓮宗系の仏堂の特徴を表わしています。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
向拝は寺院・神社建築で仏堂・社殿の屋根の中央が前方に張り出した部分です。向拝は仏堂・社殿の入口に階段上に設けられることから階隠(はしかくし)とも言われています。
本隆寺

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